ライン


不倫の仔(セントバーナード/アフガン)

 十人兄弟の末っ子として僕は生まれた。

 パパはドッグショーにも出たことがある全身白色の大型犬アフガンで、ママは超大型犬の繁殖用に飼われているセントバーナードである。アメリカなどでは別の血統である犬を交配させて、新しい毛並みの犬を作り、”ハーフ”という名前で珍重する傾向があるそうだが、僕の両親の場合は違った。ちょっとした散歩の隙に、僕の両親は激しく愛し合い、僕らが生まれる事になった。

 ご主人様は生まれた僕達兄弟の姿を見て、頭を抱えている。大きくせり出した鼻に全身茶色い体毛。こんな品種が居ると言われれば、居そうな気もするが、実際に犬の百科事典を開いても該当する犬種は存在しない。強いて言えば外見はパパのアフガンに近いのだが、

「これは貰い手を探すのが大変だ」

 通常、アフガンの子供であった場合でも、セントバーナードの子供であった場合でも卸値で十五−二十万円の値段は簡単に付く。しかし日本においては”ハーフ”はつまり雑種であり、血統書付きの純血種とは値段も扱いも天と地程違うのである。

 しかし見た目の物珍しさも手伝ってか兄弟達は一人、二人と貰われて行った。ご主人様は犬が大きくなる事、及び力が強いことを買い主に説明した。僕は女の子であった為に貰われるのが遅れていた。何番目かのお客が僕を抱き上げる。ちょっと太めのおばさんである。

「セントバーナードの子供を捜していたのだけれど、どうしても欲しければ繁殖するのは来年になってしまうのかしら?」
「そうですね。でもこの子ならタダですよ」
「タダっていってもね……長く一緒に暮らすのだから……もう少し考えさせて頂戴」

 軽く下に降ろされた。袖の間から他の犬の臭いがした。大型犬の臭いでは無い、どう考えてもこれは小型犬の臭いである。

 子犬は百日以内に新しい買い主の元に行かないと懐かないという説がある為、既に生後九十日を経過している僕は早く新しいご主人様を見つけないといけないのだ。
 数日後、段ボールを持ったあの太めのおばさんが僕を連れに来た。段ボールの中には古ぼけたバスタオルが入っている。おばさんは慣れた手つきで、僕のママの体臭をバスタオルでふき取り、段ボールに入れ、その中に僕を入れた。

「ありがとうございます。大きくなりますからね、その点気を付けて下さいね」
「分かっています。訓練士の先生をお願いするつもりですから」
「そうですか。じゃ大丈夫ですね。是非可愛がってやって下さい」

 乱暴に段ボールの中が揺れる。「ぎゃ」と悲鳴を上げるが、助けてくれる人は居ない。仕方なく段ボールの中に縮こまり、大人しくしている。これがこれでママの臭いがして気持ちがいい。このバスタオルは、新しいご主人様に貰われ落ち着くまで僕の一番の宝物になったのである。

 大きな芝生の敷き詰められた広いお庭。

 僕の新しい家は小型犬の隣であった。想像した通り、先住民は居たのである。きゃんきゃん五月蠅いが、あまり気にせず新しい家へと入る。僕が十人ぐらい入れる程大きい。どうやら僕が大きく成長する事を見越して購入しておいた様である。

「ママ、でも寂しいよ」

 父のアフガンは一人放っておくと死んでしまうと言われる程、寂しがり屋の品種であるそうだが、僕もその血を色濃く継いでしまった様である。しかしノンビリ寂しがっても居られなかった。餌はいつも通りのドッグフードだったが、到着して数日してから”訓練士”と呼ばれる僕の先生が毎日勉強に訪れる様になったからである。

「はい、ぴしっと」

 首には布製の首輪ではなく、ステンレスで作られた”チョークチェーン”がかけられる。見た目はキラキラしていて格好いいのだが、少しでも先生に逆らって行動しようものなら、ぎゅっとリードを引っ張られてしまい、首がきつく締まってしまうのだ。これはつらい。まず体にびっしり覚えさせられたのは、一緒にきちんと歩くこと。先生の左背後に常に体を置き、それより前に出ると、リードを引かれてしまう。「後え、後え」決して甘える事は許してくれない。

「先生どうですか、ヘレナは慣れて来ましたか」
「元々アフガンもセントバーナードも頭が悪い犬では無いから、しつけの入りはいいですよ」

 ご主人様だ。こちらには甘える。僕の名前はどうやら”エレナ”に決定したらしい。これは旧ルーマニアの暴君、チャウセスク大統領の奥さんの名前であるそうな。”強い犬に成って欲しい”どうやらそう言う意味合いが込められているようである。

「家を守って貰うんだから、がんばって貰わないと大変!大変!」

 チョークチェーンを元の布製に変えて貰い小屋へと戻る。きついけれど充実した毎日。今日も夕食までまだ時間があるから、ちょっと寝ておこう……そう思った僕の前に白い毛の犬がひょこっと顔を出した。

「こんにちは!新人さんかい?」

 先生に教えて貰った通り、吠えようと思ったのだが、よく考えてみると、犬がやって来た場合はどうしたらよいか教えて貰っていない。困った、どうしたらいいんだろう……僕の体重は既に四十キロを大きく突破しているのに対して、やってきた犬はせいぜい五キロが良いところである。種類はマルチーズと言うらしい。クルクルとした毛が可愛いが、これは臭いから察するに”雄”である。

「ちょっと一緒に寝ていいかい」
「え、僕疲れて居るんだけど」
「寝るだけだから……」

 まだ僕には生理が始まっていない。だから妊娠する可能性は無いのだが、何故か怖い。隣に住んでいる雄のチワワは敵の来訪に気が付いているはずなのに吠えない。まさかこの犬はこの家に遊びに来る常連なのであろうか?

「え、え、困るんだけど。ご主人様に怒られちゃう」

 しかし、マルチーズがしたのは本当に”寝るだけ”であった。僕はちょっと怖くなったので小屋から逃げ出して、地面で寝ることにした。宝物のバスタオルの上でノンビリと寝るマルチーズ。怒りたいのだが、どうしてもそれが言い出せず、一人眠れずに一晩中悶々としてしまった。

「はい。エレナご飯だよ!あれ?どうしたのお外で寝て」
「助けて!!」

 小屋の中を覗く。マルチーズを確認した様だが、寝ているのを見るとそれ以上しようとはしない。乱入者だよ!そのままにしておいていいの!!それでもお腹が空いていたので、ばりばりとドックフードを食べていると、ご主人様が頭の上でこう教えてくれた。

「このマルチーズはもうおじいさんなの。川向こうのお屋敷に住んで居るんだけど、時々ぼけてしまって、あちこちの家で寝てしまうのよ。
 何度か買い主の人とお話したんだけど、「もうそう長くは無いと思うから好きにさせてあげて」と聞いて貰えなくて、あんたがご飯食べ終わったら、私がちゃんと家まで送って行くから安心して」

 それなら安心だ。

 ご主人様は僕がご飯を食べ終わり、水を飲み始めたのを確認すると、マルチーズを起こし玄関の方へ追いやった。
 マルチーズの方も、大分要領が分かっている様である。「帰ればいいんでしょ。帰れば」とフラフラと脚を動かすマルチーズ。その日から、何故か理由は分からないのだけれど、僕の家にはご主人様が寝てしまった夜更けにマルチーズが遊びに来るようになった。そしてご主人様が起き出す日の出前に自宅へ帰って行く。人はそのマルチーズを僕の彼氏と評したが、とんでもない話である。マルチーズが居る間は小屋に入ることが出来ないし、後で食べようと餌を取って置いてもうっかり食べられてしまうのからである。

「バスタオルだけは、取られないようにもう外に出しておこう」

 口でずるずると外へバスタオルを引っ張って行く。変な犬も居る物である。変と言えば僕の名前も一年も経たないのに変えられてしまった。どうやらルーマニアで革命があって、強権を誇っていたヘレナ夫人が殺されてしまった様なのである。
 これは縁起が悪い。と僕の名前は急遽”大和”に変えられてしまった。日本が太平洋戦争の際建造した戦艦の名前である。外見が既に男の子みたいなのに、名前までそんな名前に変えられてしまったら、偉い迷惑である。であるが、僕にその選択権は無い。

「まあいっか」

 気が付くと新入りも入ってきた。今までは同居人は小型犬が二匹だけであったのが、今回は同じ大型犬である。超大型犬の血が入っている僕の方がやはり大きいが、どうも態度が気にくわない。ご主人には出来るだけ、甘えず、日々訓練に鍛錬に励んでいる僕と違い、毎日ゴロゴロ・ゴロゴロ遊んで居るだけなのである。

「大型犬としての自覚が足りないんじゃないか!」

 僕は超大型犬だったか。訓練は一年程の時間をかけて、ついに完結した。犬の訓練学校に行けばもっと短い期間で訓練が終わったそうなのだが、そうすると忙しいご主人様が毎日訓練学校に行かなくてはならないので、毎日訓練士の先生が家に来て教えてくれる事になっていたのである。

 僕はお座り、お手、伏せ、ちんちん、の基本技に加え、カゴを噛んでその中に物を入れて運ぶという技も会得した。最終日は先生が以外にも抱きしめてくれた。そのまま頬を舐めたいなとは思ったけれど、今までの訓練のつらさを思い出したのでどうしても出来なかった。生まれて始めて訪れた別れ。僕はその意味が良く分からないで居た。

「明日も先生来るんでしょ?」

 僕に良く懐いたのは、外部からやって来るマルチーズだけでなく、家で飼われているアヒルもそうだった。何と彼は僕の大切な飲み水を飲み、それで毎日体を洗おうとするのである。小屋が水浸しになる!これだけは何とか阻止しないと!とアヒルを追い立てようとしたとたん。ご主人様が怒り狂って家の中から出てきた。

「大和!アヒルを苛めたら駄目!弱い子は守ってあげないと」

 強い犬というのは、ある意味一番立場が弱く、我慢しなければならない存在であるらしい。かくして、烏骨鶏に苛められてばかりいて、所在なげであったアヒルが僕の小屋の前に堂々と陣取るようになった。僕が怒ると驚いて逃げていってくれる烏骨鶏の方が正直言うと好きである。怒れない僕に便乗してえばりくさっているアヒルなんて嫌いだ!

 でも、一つだけ好きな事があった。
 朝一番でアヒルが水を飲んでいる時にうっかり卵を生む事があるのである。ほかほかの産み立ての卵。初めは試しに噛み付いてみたのだが、そこから漏れてきた黄身の美味しいこと美味しいこと!それから朝にアヒルが水を飲むのは許す事にして、優しく側で見守る事にしたのである。

「こら、大和。卵食べちゃ駄目でしょ」

 ご主人様が怒っている。先ほど卵を食べた際に残して置いた卵の殻をご主人様に見つかってしまったのだ。白い卵に二つ空いた牙の跡。いつも通り殻ごと食べてしまえば良かったのに、ちょっと殻が美味しくないことに気が付いて、残したことが仇となってしまったようだ。

 かくして僕の水入れはアヒルが絶対に届かない高い石の上に置かれるようになってしまった。僕が水を飲みたくなってもそう簡単には飲むことが出来ない。ショードッグなどは体型を崩さない為に飲ませる水の量を制限するようだが、家を守るのが主な仕事である僕にそういった事は全く必要ない。

「卵楽しかったのにー」

 未練が無いと言ったら嘘になる。庭を楽しそうに走り回る鳥たち。僕も何時かああして庭を駆け回れたらいいな、と思うようになってきた。この家に来て少なくとも一ヶ月は自由に走り回ることが許されていたのだから、決してそれは無理な相談では無いはずだ。

 先日やってきた大型犬、”アラスカンマラミュート”は庭中をロープの先にトラックのタイヤが付いた重りを付いて走り回っている。どうやらこの犬は元々橇犬であるらしい。物を引っ張って走り回るのが大好きなのだ。僕と同じくチョークチェーンをしているにも関わらず、容赦なくタイヤを引っ張りながら庭中を爆走する。

 タイヤはアラスカンマラミュートの体力を消耗させる為でなく、玄関から逃げ出さない為でもあるようだ。柵を越えて外に逃げようとしてもどうしても柵の内側にタイヤが残ってしまい、外に逃げ出すことは出来ない。

「大和もやってみる?案外楽しいかもよ」

 別にあんなに重い物を付けてまで走り回りたくは無いのだけれど、とりあえず首輪の先に付けられたので走ってみる。重い。何でこんなに重い物を持って走れるのだろう。

「面倒くさい。寝てよ」

 薄暗い縁側の下に穴を掘って僕は寝ることにした。ここなら誰にも邪魔されないからだ。数時間してご主人様が戻ってきた。僕の不甲斐ない態度にどうも怒っているようだ。

「大和タイヤ嫌いなの。じゃ、無しでお庭走ってみる?脱走しちゃ駄目よ」

 重いロープが外された。と、同時に僕の理性も吹っ飛んでしまった。勢い良く二メートルはある柵を乗り越え、外へと駆け出す。後ろからは怒り狂ったご主人様の姿が見えたが、それ以上は気にはならなかった。思いっきり走る!走る!僕のパパ、アフガンは元々狩猟犬である。長い足は細かい草の生えた猟場を誰よりも早く駆け抜ける為に出来ているのである。つい野生の血も騒いでしまった。家で普段見ているはずなのに、鶏小屋を見たとたん、ついつい鳥をぱくっ。と捕まえてしまった。

「大和!何やってるの!」

 後ろからご主人様が自転車で追いかけてきた。頭をしこたま叩かれ、いつも通りリードを付けられる。当然の事ながら口にくわえていた鳥も外へ放される。鳥は死んではいなかったが、相当ショックを受けてしまったようで、自由になったとたん、慌てて僕の前から逃げ去って行ってしまった。

 僕が悪いんじゃないんだ。どうしても血が騒いでしまったんだ……という言い訳をご主人様が理解してくれる筈もなく、その日から僕は絶対にリード無しには庭に放しては貰えなくなってしまった。

「つまらない」

 僕はいつまで経ってもただの番犬であったが、その仕事に誇りと責任感を持っていた。

 ご主人様の家族以外は絶対に家の中に入れなかったし、時には体を張って阻止する事もした。僕がこの家を守り始めて十年も経ったであろうか、その間一度の泥棒も不審者もこの家を襲う事は無かったのである。

「大和大丈夫。ご飯食べられる?」

 もう僕の体は動かない。
 地球上の生物の寿命と言うのは心臓の鼓動回数で決まると言う。僕は何匹物仲間が目の前で死んでいくのを見てきた。ついにその番が僕に回ってきただけ、ただそれだけの事なのだから。

 ご主人様に口にご飯を運んで貰う。今日は牛乳でパンを煮込んだパン粥であるらしい。口の中に何とか流し込んで貰う。ご主人様は病院治療による延命よりも、僕に最後の日までの時間を自由に過ごさせる事を選んだ。僕の首からチョークチェーンはようやく外された。

「好きに動きなさい。好きに遊びなさい。そしてお腹が空いたらご飯を食べなさい」

 僕はようやく生まれて以来の自由を取り戻したのである。

 病状は薬によって一進一退を続けていた。今日は何とか庭を歩き回れたけど、明日は分からない。最後はお尻からウンチが出てこなくなってしまった。ご主人様が嫌がる僕のお尻の穴から薬を入れて、何とかウンチを外に出してくれる。ナサケナイ。でも、本当にもうそろそろ最後の時が本当にやってきそうであった。
 
 ご主人様はこうも言った。

「あと一ヶ月もすれば、夏が終わる。そうすれば体力的にもかなり楽になる。動けなくなって二ヶ月何とか持ったのだから、この夏さえ何とか乗り切れば、又元気になれるよ」

 そういえば、あのアラスカンマラミュートが逝ったのも昨年夏の出来事だった。八月二十日。夜、ご主人様がご飯を盛ってきてくれたとき、僕は最後の食事を喉に通らせる事が出来なかった。

「大和。大和。食べないと死んでしまうのよ」

 悔いは無かった。このまま目を閉じて、楽になってしまえば良いのだ。呼吸が荒くなるのを見てご主人様は最後の食事を乗せたスプーンを器に戻し、僕の体をいつまでも、いつまでも優しく優しくさすってくれていた。僕は一人じゃない。僕は……

「大和……」

 最後に静かに僕の息が止まった。苦しい事など一つも無かったので僕の死に顔は綺麗であった筈だ。最後にそっとご主人様が僕の目を閉じてくれている。きっと僕はアラスカンマラミュートの隣に静かに葬られるのだろう。僕が駆け回りたかったこの庭の一番日当たりの良いあの場所に。

「ありがとう」

 僕の犬生に悔いは無かった。

ライン