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散歩の法則(アラスカン・マラミュート)

「何とか貰ってくんない。安くしておくからさ」
「え、だって高いんでしょ!」

 バイト先のおじさんが、耳元で甘く優しく囁く。おじさんの家で子犬が生まれたのだ。犬種は日本では珍しい”アラスカン・マラミュート”六匹生まれたのだが、後二匹どうしても売れ残ってしまったのだと言うのだ。

 アラスカンマラミュートはより強い橇犬を作るために繁殖時期になるとわざとオオカミの群に雌を放したという伝説が残っている大型犬の一種である。
 皮膚自体も普通の犬と違い、噛まれても肉まで食い込まないように、常にたるみが持たされている。上毛と下毛の毛の生え方も普通の犬とは明らかに違う。体温を守る為に下毛が異常に厚いのである。性格は乱暴ではあるが、主人には従順。美人は三日で飽きると言うが、全く見ているだけで飽きない完璧な体型を持つ、玄人好みの犬なのである。

「亜美ちゃん何とか頼むよ。
 雄の方は耳が垂れてしまっているので、仕方ないとしても、雌のアリスは何とか考えて貰えないかなー。何しろ大きくなる犬だろう。もし貰ってくれないとなると」
「なると、どうなるんですか」
「最悪、保健所と言うことも・・・」
「え???」

 その時、亜美の頭の中には、保健所というとどうしても悪い印象があった。部屋を毎日移動して最終日にはガス送られてしまうという映像をテレビで見て以来、どうしてもあの映像が頭から抜けないのである。実際は子犬で有る場合はもらい手が多いので、こうしたガス室送りにされる可能性はほぼゼロに近いのであるが。

「とりあえず、顔見てやってよ。そして決めてくれたらいいから」
「顔見るだけですよ!」

 アルバイトの時給は八〇〇円。一日八時間働いて、一万円になど全然ならないのである。格安とは言っても価格は五万円。安いのは安いと思うのだが、一週間以上しっかり働かないと犬一匹の値段にはならないのだ。

「買わない買わない。やっぱり高すぎるよ」

 でも、子犬の顔は見てみたい。と思ったのが運の尽きであった。その日のバイトが終わった後、おじさんに連れられて子犬を見に行き、その子犬の顔を見たとたん、気が変わってしまった。

 子犬とは思えぬ端正な横顔と太い脚、目の色は茶色く澄み口から覗く鋭い牙は甘ったれた洋犬とは違う野生の魅力があった。大学に通う以外、さしたる趣味が有る訳では無い。是非この可愛い子犬を育ててみたい。そう、心から思ってしまったのである。

「明日取りに来ます!」

 おじさんは後ろでピースをしていた。かくして翌日亜美は自分の車に新聞紙を敷き犬を連れに行った。おじさんの家の子供は泣き叫んでいる。「アリスを連れていかないで!アリスを連れて行かないで」と

「別れはいつかは来る事だから。子供達も分かってくれると思う。さ、早く連れていって、そして可愛がってやって」
「はい。大切にします!」

 涙は出なかった。何故なら帰りの車の中は生まれて始めて車に乗るアリスによってとんでもない状態になっていたからである。うんちはする、オシッコはする。涎を垂らして運転席の亜美にちょっかいを出す。やりたい放題なのである。

「うわー明日洗車しないと」

 かくして車は数日糞尿まみれとなった。女子学生の車としてはナサケナイ。かくして亜美とアリスとの生活が始まった。と始まる前に重要な問題が発生した。

「やっぱり名前は自分で付けたい!」

 既に血統書に”アリス”と書かれているのだが、折角だから名前は自分で付けたい。生まれて始めて?本当に?亜美の自宅には既に三匹の犬が先住民として暮らしていたのであった。

 色々とアイデアを練った末、丁度アリスの小屋の上に杏の花が咲いていたので”樹里杏”と名前を付けることにした。「今日からあんたはジュリアよ」と言っても、本人は全く分かっていない。

「そんなもの、どっちでもいいんだほー」

 外見は誰がどう見ても大人に見えるのだが、中身は子供なのである。
 甘える姿も何だかぎこちない。よくよく元の買い主に話を聞くと、何と生まれてからまだ一度も散歩に行ったことが無いと言うのである。

「じゃ、散歩に行こうか!」

 と言うと普通の犬で有れば、大喜びで付いてくるのであろうが、ジュリアは違う。「散歩、何それ」とばかりゴロゴロ転がり、甘えてくるのである。転がる体にリードを付け、立ち上がらせる。骨格がまだふにゅふにゅなのである。立って歩きはするのだが、家を出て大きな道路に出ようとすると。

「いやだ。もう行かない。そこから先はもう怖いから絶対に行かない」

 と前足と後ろ足を同時に揃え、動こうとはしない。既に体重は二十キロを超えているので、無理矢理動かそうにも、動かないのである。初日から無理をしても仕方がない。その日はそこで散歩を中断し、家へと戻った。そして翌日、翌日・・・散歩は大通りから前へと進む気配が無かった。

「あんた散歩をなめてるんじゃないの」

 なめてない。なめてない。とばかり散歩から帰ってきて甘えるジュリア。亜美はそこで一計を案じた。翌日の散歩は一緒居同居している三匹の一人、世界一小さい犬、チワワを一緒に連れていくことにしたのである。

 のそのそと歩くジュリアに対して、チワワは大喜び、悠然と道路へ足を踏み出す。問題の大きな道路へ来た。ジュリアは既に足を止め、低姿勢を取ろうとしている。チワワはそんなジュリアを置き去りにし、堂々と道路を横断し始めた。

「こんなの怖くないよ!大きい犬なのに変なの!」

 亜美を挟んで道路の片方にジュリア、チワワが並ぶ。さあ困った。この状況でジュリアはどう動くだろうか。

「おねえちゃん!危ない!」

 車が亜美に迫ってきた。ジュリアは慌てて立ち上がり、亜美の元へ。亜美も慌ててチワワの居る道路の方へ向かって走った。道路の幅は大きな道路とは言っても田舎道。実際には四メートルも無い道なのである。

「ジュリア、やっと渡れたね!おめでとう!私はこんなに嬉しい事はないよ!」

 あまりのあっけなさにジュリアは呆然としている。そこから先は散歩の達人、チワワの真似ばかりである。女の子なのに足を上げてオシッコをし、あちこちの柱の臭いをかぐ。よかった、よかった。初めの一歩さえ踏み出せば、散歩は楽しい物なのである。

 しかしここにも重大な落とし穴が待ち受けていた。チワワは朝母親に散歩に連れていって貰った後、さらにジュリアと散歩をしていたのである。一日四回の必要以上の散歩。その散歩は確実に毛のないチワワの体型を変形させて行った。

「なんだか、チワワの体が筋肉質になってきているんだけど・・・」
「本当だ。なんだか筋肉隆々。皮膚がすぐだけに気持ち悪いね」
「あんた、何かした?」
「・・・」
「チワワはそんなに歩き回る犬じゃないからね、その辺わかってる」
「わかってる。と、思う。反省してます」

 むん。と地面を掘る姿も勇ましい。かくしてチワワは不思議な生き物へと変貌を遂げ、しまいには隣の小屋に住むポメラニアンを妊娠させるにまで至った。ジュリアもそろそろ散歩を独り立ちしなければ。

「今日からジュリア、一人で散歩だよ」

 当然チワワは大激怒である。使い捨てかい!とばかりリードを付けて立ち去るジュリアの後ろから賢明に自分をアピールしている。

 ジュリアの姿が見えなくなったとたん、チワワはぴたっと鳴き声を止める。今まではジュリアの散歩の時一緒に連れていってもらっていたのに・・・急に置き去りにされてしまった。寂しいな・・・大人しく小屋へ戻るのだが、次の散歩の時はその時納得した事をすっかり忘れ、何度でも吠え続ける。まるで「犬でなしー」と言っているかのようである。

 細かい事はさておき、ポメラニアンが妊娠した事により、亜美は窮地に立たされていた。

「お産は、病院連れていくよね」
「でも本当に妊娠してるのかな?」

 獣医に連れていくも、乳房が大きく張っているし間違いないであろうと言う。
 さて、どうしようか・・・と思っている間にポメラニアンが産気づいて、さっさと子犬を出産してしまった。生まれてきた子供はチワワそっくり。毛のない茶色の子犬である。

「母親の体の中で子犬が育ち過ぎてしまっている。このままでは危ない!」
「獣医さんを!!!」

 獣医が来る前に、ポメラニアンは出産を終えた。生まれてきたのは二匹の子犬。一匹はしばらく息があったが、後に生まれた一匹は既に息が無かった。急に買い主に牙を剥き、死んでいる我が子を守るポメラニアン。亜美は涙を堪えながら、血だらけのポメラニアンを抱きしめた。手にポメラニアンが怒り狂って噛み付いて来るが、今はもうそのことは全く気にならない。

「大丈夫。大丈夫だから・・・」

 その後は母親が汚れたポメラニアンをお風呂に入れている間に、二匹の子犬のお葬式を済ませた。生まれ落ちた命。運が良ければジュリアの良い手下になっただろうに・・・

「小型犬のお産は難しい。本当に」

 お風呂から上がってきたポメラニアンはすっかり自分が子犬を生んだことを忘れてしまっていた。楽な性格。と言うべきなのであろうか、それともその方が幸せと言うべきなのであろうか。それを見つめるジュリアの目は何故か優しかった。

 散歩は暑い日も寒い日も続く。相変わらず朝夜一回づつである。

 しかし雨の日はお休み。ジュリアもそれは頭の中では聞き分けるのだが、体の方はストレスが溜まっているらしい。雨が降った翌日はジュリアはかならず小屋の廻りに穴を掘る。時にはガス管を掘り当てたりするから、亜美は雨の降った翌日は気がぬけないのである。

「ガス管掘っちゃ駄目。ぺんちんよ」

 しかし埋まっているガス管を掘り当てる前に発見するのは至難の業である。かくしてジュリアはガス管を掘り当てる度に居住を点々とすることとなった。

 大学から亜美が戻ってくるのは大体五時、ジュリアはそれを心待ちにしている。亜美の中古の軽自動車が自宅の駐車場に滑り込んで来た時点から、ジュリアは泣いて騒いで大騒ぎを始める。

 家に戻ったからと行って、うっかりお茶を飲んでいる時間は無い。あまり長い間ジュリアを外で待たせるとあまりの騒音に近所迷惑であるからである。リードを掴んでいつものコースへと向かう。今日は大学で疲れているから・・・といつものコースをショートカットして帰ろうとすると、そのショートカットの部分でジュリアが動かない。

「ジュリア、今日はこっち。もう帰ろう」

 既に体重は四十キロを突破。意地を張ってごろごろ転がるから、通りがかりの人には非常に恥ずかしいのである。かくして、ショートカットが成功する可能性は一%にもならなかった。「今日はちょっと時間があるから、遠回りしてみようかな・・・」と新しい散歩コースを知ろうものなら、ジュリアは大変である。翌日からはその新しく出来たコースの部分で座って動こうとはしない。

 かくして散歩コースは増加の一途を辿った。

 しかし、亜美が大学四年生になった辺りからであろうか、卒業研究が始まった為、亜美の帰宅が遅くなって来たのである。夜、お日様がとっぷりとくれてからの散歩。ジュリアは寂しさを隠せなかった。

 これでも亜美は、

「犬の散歩がありますから、もう帰ります」

 と研究室を誰よりも早く出ているのだが、やはり忙しい時もあるのである。

「犬の散歩は私の最重要任務です」

 亜美は何とか時間をみつけ、ジュリアとふれ合いの時間を持つようにしたのだが、やはり限界がある。亜美は考えた。思い切ってジュリアを遠くに連れていってはどうだろう。

「ジュリア、お水遊びに行こうか!」

 出かけたのは家からちょっと離れた大きな川である。
 亜美の頭の中では、水の中楽しくはね回るジュリアの姿が浮かんでいたのだが、元々ジュリアはアラスカの極寒の地に生まれ育った品種である。川でなど遊ぼうはずが無い。

「え、折角来たんだから、遊ぼうよー」

 無理矢理リードを引っ張る亜美。ふんばるジュリア。力比べはほぼ互角。しばらく頑張ったが、亜美は無理をさせても・・・と諦めてオヤツに持ってきたクッキーの箱を開いた。甘いチーズの臭い。その臭いを嗅いだジュリアはのそのそと亜美の膝の間に入り、ぽこっと顔を出した。

「食べる?ジュリア」
 
 意地悪亜美は水の中にクッキーを投げた。水への恐怖が勝つか、食欲が勝つか。結果は食欲が勝ち、ジュリアは川に長い鼻を沈め、がぶっと水を飲みながらクッキーを食べた。苦労して取ったのだが、水にふやけたクッキーはあまり美味しくなかったらしい。

 しかし、ジュリアは二ヶ目に投げられたクッキーも、その次のクッキーも何度も何度も必死で川の中から探し出し、食べ続けた。あっという間にクッキーの箱は空になって行った。空になってしまった事をジュリアに告げても、ジュリアは川の中で期待を持って待ち受けている。さて、困った・・・亜美が取った行動は買い主とは思えない酷い物であった。クッキーの入っていない手を川に向かって振り、まるでクッキーが入っているかのように振る舞ったのである。

「ジュリア。あそこに投げたよ?」

 小石を同時に投げたので、水しぶきが立っている。
 ジュリアは慌てて無いクッキーを探す。何度も何度も川に顔を突っ込むのだが、みつからない。「あれ?あれ?あれ?」

「さ、ジュリア帰るよー」
「クッキーお姉ちゃん投げたよね?」
「投げたよ。探しといで」
「あれ???」

 帰ろうと促す亜美の言葉はジュリアに届かない。ジュリアはぐるぐるぐると歩き回り、顔を川に突っ込んだ。これは悪いことをしてしまった・・・

 いつまで経っても納得せず探し回るジュリア。最後は無理矢理川から引きずり出され、全身をタオルで拭かれた後、車の中に投げ込まれた。その後遠く離れたその川への散歩は繰り返される事は無かったが、亜美とジュリアの心の中にはこの時の出来事がいつまでも残り続けていた。

 ジュリアと亜美の関係が大きく崩れたのは亜美が大学を卒業した頃である。亜美は自宅近くの会社に就職したのだが、総合職と言う事もあり、帰宅は夜遅く。朝早く起きてジュリアの散歩には必ず行くのだが、一日二回の散歩が一回になったことをジュリアが納得する筈もない。

 かくしてジュリアは同じく三匹目の同居人犬のセントバーナードと夕方の散歩をするようになった。大型犬二匹を一人の人間が操作するのである。一匹が暴走したり、フラフラしてはとても続かない。かくしてジュリアはきつい訓練を受けることになってしまった。

「散歩は必ず左側!きゅんきゅん引っ張っちゃ駄目!」

 しかし言うことさえ聞いていれば、散歩に連れていってくれるのである。セントバーナードの方は訓練士について専門的に散歩について学んでいるので、ジュリアがオドオド散歩のマナーを覚えている最中。余裕で隣を歩いている。

 セントバーナードは怖い顔をしているので、雄に勘違いされがちであるが、実際は雌である。近所で最強の犬は警察の派出所に住んでいるセントバーナードであろうが、第二位は間違いなく亜美の家のセントバーナード。第三位は僅差でジュリアであろうか。近所の人はジュリアとセントバーナードの散歩を何時しか”二頭立ての馬車”と呼ぶようになっていた。散歩の最中。余程の人でない限り、側を近寄ろうとはしない。

 その分休日はばっちりと遊ぶ。一時間二時間かけてする散歩はジュリアにとって最高のプレゼントである。「やったー」とばかり、調子に乗りすぎたジュリアは綱を振り払い、亜美の元から駆けだして行ってしまった。

「ジュリア!駄目!!!」

 亜美の声は夢中になったジュリアには届かない。必死に追いかけるがジュリアは後ろ全く見ようとしてくれない。シベリアンハスキーやアラスカンマラミュートは特に帰巣本能が弱いと言われている犬種である。場合によっては迷子によって二度と家へと戻れなくなってしまう。

「駄目!!戻ってらっしゃい!!」

 既に姿は見えなくなってしまった。

 亜美は慌てて家に戻り、家人に事情を説明し、自転車に跨った。近所中を大捜索。今までの散歩コースは勿論の事、一度でも行ったことがある所、探しに探したが見つからない。「最近遊んであげてなかったからな・・・」反省しながらも、願いを込めて自宅へと戻る。もしかしたら自力で家に戻ってきているかもしれない。

「駄目。戻ってないわ。保健所にも電話したけど、マラミュートは居ないって」
「そっか・・・」

 夕食の席でも箸がどうしても進まない。どうしよう。どうしよう。どこに行ってしまったのだろう・・・

 その時亜美の脳裏に、夏に行った川の光景が頭に浮かんだ。もしかしたらあそこに行っているかもしれない!!!

「お母さん。ちょっと私車で探してくるわ」

 慌てて部屋からキーケースを取りだし、外へと駆け出す。まさかあそこに居るなんて事は・・・車のキーを開き、中に入ろうとした瞬間。足に何かが触れた。あれ?車の下に何か居る?

 腰を屈めて下を覗き込む。車内室内灯の薄暗い光りの合間に、「尻尾踏まないでよ」と怒っているジュリアの顔が見えた。戻ってきた!戻ってきていたのである。

「どうして、お家に帰ってこなくてこんな所に寝てるの!」

 それは愚問であった。亜美の家には複数の犬だけでなく、烏骨鶏、鶏なども放し飼いで同居してる為、外出時以外は常に閉門されているので、入りたくても入れなかった様なのである。

 あちこちに残るべちゃべちゃになったジュリアの足跡から推理するに、暗くなって戻ってきたジュリアは相当悩んだらしい。家へ戻ろうにも玄関は閉まっているし、ガリガリやっても開かないし。結局落ち着けそうな場所を探した結果、楽しい思い出の詰まっている車の下でとりあえず寝ることにしたようなのである。

「ジュリア、あんた真っ黒だね」

 相当脱走時間を堪能したらしい。水に濡れた白い下毛が暗闇でも良く見える。かくしてジュリアは夜であるにも関わらず、大シャンプー大会を開催させられる羽目になったのである。

「泥んこで遊び回ったあんたが悪いんでしょう!」

 ホースを振るう亜美の目は濡れていた。それが水であるのか涙であるのか、亜美自信も良く分からなくなってきていた。これが最後の別れにならなくて良かった。それだけを感謝しつつ、亜美は力一杯ジュリアの体を洗うのだった。

「大好きよ!ジュリア。いつまでも一緒にいようね!
 でも散歩は一人で行かないでね!それだけは約束して!」

 そんな亜美とジュリアとの関係が二年も続いたであろうか、またしても新しい転機を迎える事となったのである。今回は散歩の数が一日ゼロ回になってしまうと言う変化である。じゃじゃ馬亜美が何と妊娠したのである。お相手は大学時代からつき合っている彼氏である。かくしてあっという間に結婚が決まり、亜美はジュリアの住む実家を出ることになってしまった。

「ジュリア。お父さんとお母さんの言うことを聞いて頑張るんだよ
 三年待って。何とか三年で迎えに来れるように頑張るから!」

 この約束が果たせる見込みは現時点では全く無い。
 しかしお腹に子供が居るため、今までのように抱きついてスキンシップをする事は出来ない。大型犬は妊婦にとって凶器と一緒なのであるから。家に一人残されたジュリア。亜美の父はこう言って亜美を送り出して行った。

「ジュリアの面倒はきちんと見るから安心しなさい。早く子供を産んで、家を建てて、ジュリアを迎えに来てあげなさい」
「ありがとう!」

 賃貸では犬を飼うことは出来ない。こんなにも早く別れが訪れると思っていなかった為、後ろ髪は引かれっぱなしである。かくして出産予定日の二ヶ月前にさっさと亜美は実家に戻ってきてしまった。

「仕事はもう辞めたから、大丈夫。のんびりさせてね!」

 やはり上げ膳据え膳は妊婦にとって楽なのである。
 とはいえ、ジュリアと散歩する事は許されては居ない。万が一でもジュリアが強烈に引っ張って流産しては大変だからである。亜美は毎日ジュリアの顔を見てはゴロゴロする生活。昔はともかく、現代の妊婦は妊娠中毒症を起こす可能性がある為、太ってはいけないのである。油断してコロコロになる亜美。

「あんた、妊婦だからってもう少し運動しなさい。今太りすぎると、出産が終わった後で体重が落ちないよ!」
「え、でもジュリアと散歩しちゃいけないんでしょ?やっぱり相方が居ないと」
「ヨークシャーテリアが居るでしょう!」

 そうだった。
 ポメラニアン、チワワは既に亡くなり、皇太子妃雅子様のショコラの影響で、実家ではヨークシャーテリアを飼い始めていたのだった。体重は成犬で三k程と非常に小さく、神経質な犬。亜美は正直懐かない犬はあまり好きでは無かった。

「あんた散歩一緒に行ってくれるの?」

 普通犬はリードを見ると、大喜びで付いてくる物だが、ヨークシャーテリアは違った。亜美がリードを持っているのを見たとたん、家の中を逃げ回り始めたのである。

「待てー。それはどういう事だ」

 誰がどう見ても、ヨークシャーテリアは亜美と散歩に行くことを嫌がっている様に見えるだろう。基本的に狩猟犬ではあるのだが、ヨークシャーテリアは散歩が嫌いであった。無理矢理リードに繋ぎ、近所を歩く。が、しかしちょっと歩いただけで、ヨークシャーテリアはさっさと足を止めてしまった。

「もう歩けない。残念だ。非常に残念だ・・・」

 ばたっと両足を地面に付け、全く動こうとはしない。リードでずるずる引っ張ってもそれ以上体を動かそうとはしない。ぐうたら犬というのはこういう物なのであろうか、かくして亜美は散歩のパートナーを失い、一人川縁をノタノタと歩く日々が続いた。

「亜美ちゃん一人で散歩かい」
「ええ、パートナー全てに振られてしまいまして」

 犬と散歩するのが当たり前の地域で、一人で散歩をする悲しさ。通りがかりの知り合いに説明するたびに顔が赤くなってしまう。こうなればさっさと出産を終わらせてやる!とばかり、予定日を一日過ぎてしまった亜美は先生に頼み込み妊娠誘発剤を点滴した。あっという間に陣痛が始まり出産。元気な女の子が産まれてきた。

「やった!」

 しかし出産後は体力が衰えているので、やはり散歩は禁止。亜美が再びジュリアと散歩が出来るようにまで体調が復活するのは、子供が生後一ヶ月となり、一ヶ月検診に再び病院を訪れた時であった。

「ジュリア!お待たせ!」

 ふわーと寝ころんだまま、亜美の方を見ようともしてくれない。すっかり冷たくなっている。連呼すると、仕方なさそうにのそのそ小屋からは出てきてくれるのだが、昔程喜んではくれない。久しぶりに春風の吹く川縁を歩く。散歩のコースを通るにつれて、ジュリアは亜美との楽しい記憶が蘇って来た様である。さて、ここで曲がると怒るかな?亜美はショートカットの場所でわざと曲がろうとした。すると。

 とたんお座りをして、足を止めてしまった。やっぱり覚えていてくれた!この日からまたジュリアと亜美の散歩生活が始まった。回数は確かに減ってしまったのだが、ベビーカーを押して家族三人で散歩したり、子供がよちよち歩きを始めると、一緒にリードを引っ張る振りをして歩いてみたり。別れの時の寂しい記憶から考えると、夢のような記憶であった。

「夢だったんだ」
「何が?」
「こうして家族三人、ジュリアとこうして川縁を歩く事が。何かこれだけで私は幸せだ」
「ん、そうか?」
「出産も終わったし、後はジュリアを引き取るだけよね」
「お前それ本気で考えているのか?」
「勿論よ」

 それが一番重要な問題であった。亜美は現在子育て中である為、働くことは出来ない。出産後四ヶ月で仕事に復帰しようとしたのだが、それは旦那に止められた。

「もう少し、子供が大きくなるまで我慢してくれ」
「え!それは!」

 悔いは残ったが、結局亜美は旦那の言葉に従い、一年間休業した後は本業へと戻った。ケチケチ女、ぐうたら嫁、旦那からの悪口は酷かったが、亜美は必死に家計をやりくりし、何と結婚して三年で家の頭金を貯め込んだのである。

「一体どこからこんなお金が?」
「塵も溜まれば山となる。これならいいでしょ。子供も大きな家に住みたいだろうし」
「しかしこの程度の頭金で家が買えるのか」

 それが、結構買えたのである。

 頭金が五百万円程度しか無い時でも、不動産屋は本当にその金額でギリギリ買える物件を見つけだしてきてくれた。十九坪にびっちりと鉛筆のように立つ住宅、庭は広いのだが、築年数が三十年と亜美の年齢よりも高い物件。床がふかふかであったり、水回りのリフォームに三百万円かかると言われたりと、とにかく苦労が続いた。マンションも色々見てみたが、やはり亜美が欲しいのは”ジュリアと一緒に暮らせる家”である。

「このマンションは犬と一緒に住んでも大丈夫ですよ」
「いえ、やっぱり大型犬なので、一戸建てでないと難しいと思います」
「え?もう飼っていらしているんですか?」
「実家に預けてあります。とにかくオオカミ犬なので」

 いつも見る場所にジュリアの写真を飾り、旦那の悪口を気にせず、亜美は家探しに没頭した。

「どこか良いところは・・・」

 最終的に決断した家は中古の一軒屋であった。土地は三十坪。家の前に広がる芝生にはジュリアが十分住めそうな空間が広がっている。これなら、一緒に住むことが出来るに違いない。桜の花が散り、季節は六月の梅雨の時期となった。契約を全て完了させ、実家にジュリアを迎えに行こうとしたその時である。

「ちょっと待て。大型犬をこの家に飼うのなら、柵をきちんと作らないと駄目だぞ!」
「柵?どうして?」
「お前の実家のような田舎ならともかく、ここは住宅街だ。子供が手を出して噛まれたりしたら大変だろう。きちんと準備してから連れてくることにしてくれ」
「分かった」

 気持ちは急くのだが、亜美は助言に従い、ジュリアを飼う柵の見積もりを取った。価格は何と二十万円!!!住宅購入の為、大枚を叩いてしまった今となっては、そんなお金を右から左へとすぐに出せる金額では無い。

「どうしよう・・・」

 困った。そうだ八月のボーナスを柵購入資金にあてよう。そう思った翌月。大事件が発生した。何とジュリアが

 死んでしまった

 のである。

 連絡を受け、とるものとりあえず、亜美は実家へと向かった。夏が近づいて来た為、北国生まれのジュリアの調子が又悪くなってきている、そういう話は聞いていたのだが、死ぬまで悪かったとは聞いていない。小屋の前に布に隠されて倒れるジュリアの死体。口に血の痕が一筋付いているのさえ見えなければ、眠っているような姿である。

「昨夜ご飯を上げたときは元気だったんだけど、今朝起きたら・・・」
「どうしてだろ、死因は?」

 両親は首を振るばかり。涙がぼろぼろと止まらない。一輪車に重いジュリアの体を乗せ、庭の片隅にジュリアを埋める。必死に体を動かす亜美であるが、哀しみに体が流されて思うように体が動かない。最後に埋めた上に赤い御影石を乗せ、ずっと使っていたステンレス製の餌入れを置いた。

「亜美、水を入れてやってくれ」
「分かった」

 両親、亜美共に墓に祈りを捧げる。

「来月、お父さんが中国に出張だったから、散歩が大変になるだろうと思って早く逝ったのかもしれない」
「そんな事無い。何故あの時思い切ってジュリアを引き取らなかったのだろう。そうすれば、少なくとも一ヶ月は一緒に暮らせたのに!」
「一ヶ月しか暮らせなくて、工事なんてしたら大変な事になるよ。ジュリアもその事分かっていたんだよ。工事の前に、迷惑をかけずに逝こう、と」
「迷惑なんかじゃない。一ヶ月でも一緒に暮らしたかった」

 涙に暮れて、亜美は帰宅の途についた。
 最愛の友との別れ。あっけない幕切れ。

 気持ちの整理がいつまで経ってもつける事が出来ず、亜美はその後数年間犬を飼うことが出来なかった。

 散歩の法則は相手を完全に失ったのである。



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