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中国留学生的日記

一.中国へ短期留学

 北京の朝は早い。
 ふううっと鉄パイプのベッドから腰を上げると、鉄格子の付いた窓の向こうから人の姿が見えた。よくよく見るとどうやら道のゴミ箱からゴミを、いやより正確には空き缶を収集しているようである。そう言えば、ここ北京では空き缶だけ収集していてもかなり良いお金になるのだ、と先日会ったビジネスマンが言っていたような……どうもその話は真実であったようである。
 特にこの外国人楼はそう言う事情を良く知らない裕福な外国人が多い為か、夕方気にして外国人楼の前のごみ箱を覗いて見ると、捨てられている空き缶の量は結構多い。意識して毎日観察を続けていると、名前は知らないが、朝一で空き缶を収集に来る人間が居るのに気が付いた。田舎の方に行けばジュースを飲んでいる最中に”それを寄越せ”と言ってくる事もあるから、生活の為に早起きをして空き缶を集めると言う行為は、神経質に一々気にするような問題では無いのかもしれない。

 頭をがりがりとかきあげながら、パジャマから短パンに着替え、食堂へと向かう。自慢の長髪も日本での習慣そのままに、中国の硬水で毎日ゴシゴシ洗い過ぎたせいか、最近は毛先が茶色く枝毛になって来てしまった。この国では余りまめに髪を洗わない方がいいのかもしれない。毛先を見ていると段々憂鬱な気持ちになってくる。
 現在んでいる外国人楼には、トイレ、シャワー、エレベーターの他に専用のレストランが付いているので、食事には困る事は無い。入り口にて食券を買いヨーグルトと揚げパンを頼む。日本では毎朝牛乳を飲むのが習慣であったが、こちらの牛乳は脱脂粉乳でとても飲めた物では無かった。日本でも戦時中はこの脱脂粉乳を飲んでいたそうだが、これを毎日飲んでいれば、牛乳嫌いになる事は間違いないだろう。
 が、このヨーグルトは何度食べても旨い。教えられた通り、真面目に作っている味である。注文をして、紙コップに入れて貰い粒の粗い砂糖をかけて食べるのだが、何ともさっぱりしていて、旨い。朝ご飯は揚げパンにヨーグルトを付けたりしてぼりぼりと食べる。占めて一元かからない朝食だ。安い。
「すっかり馴染んでしまった。いやはや。もう現地人と見分けがつかなくなってるかもしれないね」

 一週間前
 日本から中国、北京に到着した次の日から授業を受ける。当然個人が中心の短期留学であるから歓迎会などは存在しない。午前中は夏休み中で使われていない教室で中国語の授業を英語で受講する。受けている人種は日本人、アメリカ人、ドイツ人など多種多様だ。誰も目が真面目で必死に授業についていこうとしているのが分かる。私は到着してすぐは中国語の聞き取りに四苦八苦。一番初心者のクラスの授業にすらついて行けない状態であった。
「大学で三年も勉強してきたのに、どうして……」
 授業が終了し、外国人楼へ戻る。すぐ予習復習を開始する。辞書を引いて日本語訳を付け発音練習をする。頭では分かっているのに実際の授業となると尻込みしてしまう。私はある意味スランプの様な状態に陥っていました。
「分かってる。分かっているんだけどなぜ話せないんだろう」

二.ごはん

 中国で中国語を話せないと、まず困るのは食事である。食べたい物の名前を中国語で言う事が出来ない為、食べたいものが食べられないのである。留学生専用のレストランでトレイを持って列に並ぶ。レストランの入り口には黒板に今日のメニューと値段が書かれているが、崩した漢字に習ったことのない単語のオンパレードで全く要領を得ない。とりあえず指で料理を指すのだが、何しろ頼む窓口から遠く離れた所に料理が並べている為、思った料理をトレイになかなかよそってくれない。
「あれが食べたいのに……」
 そこで私が取った行動は簡単だった。前に並ぶ留学生の料理を指さして、中国語で「同じ物を下さい」と言う事だった。量が多くて食べ切れそうに無いが、とりあえず料理が手に入り”ホッ”として席に付く。中国のご飯は日本の水稲と違い陸稲であり、なおかつ釜でなくトレイに米を敷き詰め焼いているのでぼそぼそとしている。しかし小麦粉を練り合わせて作ったパオズは非常に美味しい。これは入り口の側で売っているので段々慣れてくると、最初に頼むようになった。
「パオズを貰ったから今日はご飯は要らない」
 と言っても、料理人は「同じのをくれと言った!!!」とばかりご飯をよそってくる。日本と違い中国はなかなか融通が利かない国であるらしい。ヤレヤレと、またしても殆ど食べないのに大量の食事を受け取って席に付く。高い高いと言っても十元以上かかった事はまずなかった。
 食事が終わった後は寮の部屋に戻り外に出ることは滅多に無かった。寮への通じるエレベーターは一つであり、いつも管理人が中国茶の入った瓶を持ち、不審な人間の行き来を見張っている。「パーツオン」と左手の親指と人差し指を立て声と動作で階を指定する。これは馬の売買をしていた時に使われていた数字の数え方で、頭の良い馬に売買をしていることを知られない為に広まった物であると言う。
 数え方は、両手で十迄の数を表す日本と違い、一〜五迄は日本と同じで、六は親指と小指を立て、七は親指人差し指中指を一点で合わせる。九は人差し指一本を鍵の形に曲げ、十は全ての指を立て裏、表と振る。どうやら五以降の数字は十から幾つ少ないかと言う事をあらわして居る様である。日本でこのような事をすれば恥かしくて仕方ないかもしれないが、何せここは異国の地、確実に自分の意志を伝える為、見栄なんて張っていられない。

三.中国の大学と言う物

 授業を受け、復習をして、予習をしたらもう一日が終わっている。健康的な毎日だとは思うが、何か物足りない。今日もチリチリと自転車のベルの音が辺りに響き渡り、車のクラクションの音が朝の澄んだ空気により鮮明に伝わって来る。車の故障個所というのは国に依って大差があると言う。山地の多い国ではクラッチの故障率が高く、雨が多い国ではワイパーの交換率が以上に高い。こと中国では車のクラクションの故障率が日本とは比べ物にならない位高いのだと言う。譲り合いの精神が無いのか?というよりもめちゃくちゃなのである。大きな道路の場合は、大概真ん中に人が立ち交通整理をしている
 が、信号が赤でも左折の場合は車が容赦なく車道に乗り込んでくる。国際免許を持ってこなかったので私は車の運転をすることが出来ないが、もとより、許可証が無いとガソリンは買えないのだと言う。車が運転出来なくて良かった。迂闊に持っていて運転させられたらどうなっていただろう……そんな事を思いつつ窓を開けた。
 大学の中を物売りの売り子が歩いているのが見える。私は日本と中国の大学しか知らないが、この中国の大学と言うのは日本の大学とは全く違っている。”勉強をする所”と言う事は同じであるが、違った所は色々とあるが、まず驚いたのが大学の中に先生達が家族で住んでいると言うことであった。人口が都市部に移動しつつある中国において、住居を保証されていると言うのは重要な雇用条件であるようだ。実際に先生達の家へと行くとかなりしっかりとした、マンション型の建物であった。この建物には例え大学を定年退職しても住み続けることが出来るのだと言う。杓子定規に全て行う日本とは大違いである。しかし大学の道路に赤ちゃんがふらふら歩き回っている姿はやはり違和感がある。
「何故大学に赤ちゃんが?」
 夏で暑いせいか?オムツをしていない赤ちゃんが大学の道をフラフラ歩き回っている。おまけにちょっと臭う……と思うと側にはその赤ちゃんがしたとおぼしき”うんち”が転がっているではないか。!!! 赤ん坊が居て驚いたと言う話を私がすると、先生はくれぐれも”物をあげない事””迂闊に抱き上げない事”を注意した。
 中国では一昔前に子供を少ない金額を支払い連れて行ってしまうと言う事が行われていた事があり、親としてはそうした事を行う人間に対しては、あからさまな敵意を抱く傾向があると言うのだ。赤ん坊を見たら笑顔で逃げる。万が一悪さをしてきた場合は覚えたての中国語では無く日本語で怒る。理屈は大分教わったが、基本的に中国人の親も子供も殆どの場合外国人との接触は極力嫌がっているように見えた。これは中国政府の政策として外国人との交流を禁じた方針が現在も息づいているせいかもしれない。
 他にも変わった事といえば、私の教わっている先生は先生同士で結婚したのだが、まだ大学内で一緒に住む部屋が決まらず、別居状態が続いている話であろうか。日本においては”別居婚”と言う物が新しい生活のスタイルとして認められつつあるが、中国においては住宅事情などにより、結婚してもすぐには同じ場所に住めない様なのである。
「来年は日本に中国語を教えに行くから、いいのだけれどね」
 明るく先生は言う。レストランがある。売店がある。ここまでは日本と一緒であるが、
病院がある。(外国人は別料金)薬屋がある(非常に良く利く。中国の病気には中国の薬があっているようだ)。中国滞在中一度だけ喉の風邪を引き、日本から持ってきた薬を飲んだところ、声が出なくなってしまった事があった。薬が切れるまでの四時間は声を失ったのではないかと言う恐怖との闘いであったが、実際に喉の調子は良くなった。しかし声が出なくなると生活上困るため、結局不思議な色のする中国製の風邪薬を口にする事にした。飲んだ翌日には体がすっきりして、声質も良くなって常備薬を持っていく事も大切だが、事薬に関しては郷に入っては郷に従えと言う事が当たっているのかもしれない。
「やっと外国人楼から遠出が出来るようになりました!」
 到着して数週間後、ようやく寮と教室の往復から、大学の売店へと足を伸ばし始めた。売店では北京ダック、トイレットペーパー、コンドーム!と多種多彩な品が並んでいる。特にトイレットペーパーはトイレへの携帯が常識となっている中国では必需品である。
「成長成長。明日は大学の外へ行ってみようかな?」

四.自分が外国人であると言うこと

 留学生証明書を持って、私は揚々と大学の外へ出た。これが無ければ大学を出る事は出来ても再び入る事は出来ないのである。門の前には二人の青年男性がガードマンのように常に立ち人の出入りを見張っていた。
 北京にやってきて現在丁度一週間目。自転車の群をかき分けながら中国お好み焼き?の屋台が目につく。これは小麦粉を水で溶いた生地に葱やアブラカスなどを乗せて、巻いて食べる食べ物である。結構人気であるらしく、大学の前にも必ず二軒程の屋台が軒を連ねている。客引きを無視して果物売りの屋台へ近づく。季節は夏。屋台の上には桃、リンゴ、ブドウなどが大量に並べられていた。
「これ、頂戴!」
 桃を必死に指す。店主が「五百g? 一k?」と声をかけてくるが私に聞き取れる訳は無い。と言うよりも聞き取れる訳は無いと頭の中で思っているのだから、何を言っても伝わらないだろう。必死に指を一本立てて桃を指さす
「分かった五百gだね」
 中国においては、一斤、二斤と重さで容量を測るのが普通である。桃をささっとビニール袋に投げ込み秤で計る。「六元!」と指を合図する店主。十元のワイビーを出し四元の人民元を受け取る。中国では完全にお金は”物”だ。日本の様に大切に扱うわけなく、ぽんぽん投げてくる。最初は慣れなかったが、慣れていく内に自分でもお金を投げるようになってきた。
「ありがとう」
 頭を下げて立ち去る私。物を買って何故お礼を言うのか?と言う顔をする店主。後日これがぼられたことに気がつくのだが、同じ肌の色、髪の色であってもやはり異邦人。どことなく目立っている様だ。
 あからさまに怪しい人間が声をかけてきたり、「ファンチェン・ファンチェン(ワイビーと人民元を交換しよう)」と声をかけてくる人間がいる。
「どうして分かるんだろう?」
 中国には以前外国人しか入れないお店というのがあったと言うが、そこの警備員の中国人と外国人との判定方法は”ベルト”であったと言う。良いベルトを締めているのは外国人である可能性が高い。と言うような内容を書いたコラムが中国語の教科書に掲載されていた。
「ふーん。成る程。成る程」
 その日買った固い桃をシャリシャリ囓りながら、中国語を訳す。ここの所は中日辞書ではなく、新華社で買ったオックスフォード大学発行の英中辞書を使う様になっていた。文法的に中国語と英語は主語、動詞と来るので感覚的に掴みやすい、というのが理由であるが、一週間その他の事をせず、雑念を入れずひたすらに勉強し、到着時とは比べ物にならない位語学力が向上しているのが分かった。
「でも何で話せないのだろう」

五.夢の中へ

 夢を見た。
 何だか何人もの中国人に囲まれ、話し掛けられているのだが、自分の口が動かない。言われていることは理解できる。"大丈夫か""問題ないか"と。しかし口が動かない。言葉がどうしても出てこないのだ。
「言われていることは分かるのに……」
 頭を抱えた瞬間。目が覚めた。
「夢か……」
 びっしりと全身に汗をかいている。もはや私の"中国語を話せない"というのはトラウマと化してしまった様だ。言われていることは分かる。なのに答えられないのはなぜだろう。
「普通逆なんだよ。自分で好き勝手に話をする事はできても、人の言葉を聞き取るっていうのはものすごく難しい事なんだって」
「そうなのかな……」
 今日も朝から中国語の講義に参加し、講義が終了して同じ日本人の留学生との会話。意外と日本人の留学生は多い。先生は「日本人の留学生はまじめで優秀。他の国からの留学生はすぐに授業をさぼったりするからね」と淡々と語る。中国人の大学の先生となると、中国語+英語、又は日本語を流暢に話す人が多い。エリートの必須条件といった所なのだろうか。
「五月は英語ばかり上手だから。中国に来たら中国語で話さないと」
「えええ……」
 とは言っても英語学習経験は中学、高校、大学で習ったのと、小さな街の公民館でアイランド人の先生に集団で習っていただけ。後は英語の歌が好きなので、毎日聞いている位が話せる要因であろうか。それに何しろ授業は英語で中国語を説明するという内容。英語が出来なければ全く授業を理解する事ができない。
「後は心の問題だけだと思う。五月、あなたの授業での発音はとても奇麗な北京語、恥ずかしがらないで。もう少し頑張ってみては」
「はい……ここの所街に出てみたりして頑張っています」
「そうね。今度先生とお茶でもしましょう」
 とぼとぼと一人留学生寮に帰る。気が付くともう留学を開始して一週間が経過していた。焦りが段々と強くなってきているのが分かる。この留学は失敗だったのだろうか???
「こんにちは。日本人の人ですか」
 え?なんでこんな所で日本語が???留学生楼の前のベンチで一人の中国人とおぼしき男の子に声をかけられた。櫛で奇麗にセットされた黒い短い髪に年に似合わない小指に付けられた赤いマニキュア。本人はおそらくカッコイイと思ってしているのであろうが、およそ私にはそう思う事ができなかった。流暢な日本語は続く。
「長い黒い髪、肌、間違いなくあなたは日本人ですよね」
 留学生楼の前で東洋系の人を捕まえたら、およそ日本人である可能性が高いと思うが……

六.中国人の少年

 特に午後からの予定も入っていなかったので、私はそのままベンチの少年の隣に腰を下ろした。ナンパ、などという気の利いた物ではない。彼は私に自分の生い立ち、その他を簡単に説明した。両親がこの人民大学に勤務していて、夏休みで学校が休みなので、是非勉強して覚えた日本語を使ってみようと思い、留学生楼の前で朝から待っていたのだと言う。
「中にレストランとかあるんだから、入って探せばいいのに。ここじゃ暑いでしょ」
「中国人は留学生楼に入る事は禁止されています」
 そう言えば……留学して一週間にもなるのに、同年代の中国人の学生には全く会っていない。「夏休みだから仕方ないのだろう……」と思いつつも、余りにも不自然だった。折角余所の国に来たのだから、その国の友達を作りたい!と思っていた矢先。彼の話は続く。
「僕の日本語おかしくないですか?言っている事分かりますか」
「うん十分聞き取れる。大したもんだよ。うん」
 てれてれとした笑顔。可愛い。彼の名前は王林と言うのだと言う。漢字は、"王様の王に木が生えている林"であると言う。私も彼の表現に習って自分の名前を説明した。
「私の名前は、草木の草に四川の川、数字の五に空の月で草川五月」
「サツキ、サツキと言うのですね」
 同じ単語を何度も繰り返す王、そして彼は本題に入った。
「僕と友達になってくれませんか。お願いします」
「いいですよ。こちらこそ宜しく」
 その日はそれだけ、住所も電話番号も教える事無く別れた。とは言っても住んでいるのは留学生楼であると分かっている訳であるし、日本と違い、各部屋毎に電話がある訳でもない。各階には市内電話があるそうだが、現在の語学力では豚に真珠、釈迦に説法。何の訳に立たない。
「面白い事があるのねー。ちょっと嬉しい」
 ニコニコと部屋へ戻る。今日の日記は久しぶりに楽しい内容になりそうだった。

七.観光

 短期留学生の為に、週に一〜二回、大学主催の観光ツアーが催される事がある。
 費用は無料(既に日本において支払済み)である為と、大型のバスが留学生楼の前に乗り付けてきてくれるので、非常に便利であるし、施設に入る為の入場料も普通は外国人料金と言って、中国人の何倍もの料金を払わなくてはならないが、"私は留学生です"と証明書を提示すれば中国人と同様の料金で済むことがあるが、まだ中国語を完璧にマスターしていない人間では、受付のおばさんに押し切られて、外国人料金を払わせられてしまう事がある。
 しかし、この大学主催のツアーであればその様な心配は全くの無用だ。ただバスに座っていれば、その場所に連れて行ってくれ、面倒な手続きを先生達がやってくれる。だからかこのツアーはいつも盛況。私も今回で二回目の参加となっていた。
「五月。王林が来ているよ」
「王林???」
 バスの入り口で日本語で先生に声をかけられた。するとその先生の後に先日会った王林が座って手を振っているではないか。
「え??? どうして???」
五月の知り合いなんでしょ。王林に聞いた。彼はこの大学の職員の息子なのよ。日本語を勉強していてとても優秀なの。今日のツアーの話をしたら一緒に行きたいって」
 そんなに簡単に留学生専用のツアーに参加させていいのか??? 私の疑問をそっちのけでバスは動き始めた。私は情況を理解できないまま、王林の隣に腰を下ろした。相変わらず小指には赤いマニュキュアが塗られており、時間を経過したせいか、根元の色は少し色落ちしてしまっている。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
 屈託のない笑顔。警戒している私を少しずつ揉み解す様に話を続ける。「又会えて嬉しい。今日来るかどうか心配だった」と、
「びっくりしたわよ。又会えると思わなかったから」
「今夏休みで時間が取れたので……来年には大学受験があるので大変なんですけどね」
「中国にも受験戦争ってあるの???」
「あります・あります。私の父はこの大学の職員をしているのですが、母は薬剤師をしています。将来的には医者になりたいと思っています」
「医者。頭が良いんだね」
 こういうのを中国人エリートと言うのだろうか。彼の日本語は先日よりも確実に上達しているのが分かる。その日は北京原人を発掘した遺跡を見学。広い敷地内をのんびりと二人で散策した。中国語で書かれた解説を王林は一生懸命に私に解説し、お土産売り場では語気を荒くしながら三分の一以下に値切ってくれた。思いがけず安く瑪瑙のネックレスを手に入れた私は大喜びである。
「嬉しい。ありがとう」
「五月の笑顔が一番嬉しい。何でも言って。次は何をしようか」

八.中国の友達

 王林と出会ってから、私の生活は一変した。
 彼は外国人楼のレストランすらも"高すぎる"と言い、大学側のレストランへ連れていってくれる。運ばれてくる牛肉料理、豚肉料理、餃子、そして日本では口にすることない"田うなぎ"など。初めての中国グルメに舌鼓を打つ。そして大学に戻ってきては、王林の友達と激論を闘わせる。使われる言語は中国語、日本語、英語とちゃんぽん。文章の美しさよりも"通じること。気持ちを伝える事"が重視される。これまた、中国語と英語は文法が一緒なので知っている単語を必死に組み合わせて会話をする。そしていつしか、一人黙っている私にも質問の声が集中した。
「あなたは何故中国にやって来たのですか?中国より日本の方が進んでいる。あなたは中国に来る必要は無かったのでは?」
「そんな事ありません」
「特にあなたは理系であるという。将来エンジニアとなる人には中国語をマスターしても仕事で使うことは無いのでは」
「そんな事は……」
 皆、語気荒く質問をしてくる。たどたどしい英語で必死に説明をする。
「小さい頃から父親が中国に出張をしていたので、大きくなれば連れていってくれると思っていた。しかし大きくなっても連れていってくれなかった。中国語を勉強すれば連れていってくれると思った。しかし、連れていってくれなかった。それで自分でお金を稼ぎ中国にやってきたのだ」と、
 私の理由にびっくりする面々。簡単に外国に行くことができない中国人にしてみれば私の留学理由は冗談にしか聞こえなかったのかもしれない。私は慌てて日本語で一言付け足した。
「私の母は中国の大連で生まれた。戦争が終わって日本に帰ったけれど。北京に留学してその母の生まれた土地に行ってみたかったのです」
 王林がそれを中国語に翻訳し、皆に伝える。「うんうんうん」と頷く面々。故郷を思う気持ちは国は変わっても同じらしい。中国語をマスターしたい。皆と自由に話したい。自分の気持ちを伝えたい。私の心は悔しさで一杯になっていた。

九.香港人

 午前中の授業を終了後、私は担当の中国人の先生に良く分からなかった部分、発音できなかった部分などを聞いて又しても遅くまで残っていた。早く行かなくては外国人楼の食堂の食べ物が無くなってしまうのだが、現在は食事よりも、私にはこちらの方が大事なことであった。先生は英語と中国語しか話せないため、私の質問内容も中々先生に伝わらない。
 私が今まで会った、中国人のエリートと言われる人たちは中国語プラス英語、又は日本語という人が多い。三種類全て話せますという人は非常に稀である。
「ここの部分が良く聞き取れなかったのですが……」
 問題を指差して、英語で一生懸命に説明する。先生も黒板にそれを書き出して説明してくれるが、中々らちがあかない。そこへ上級クラスの先生が生徒と一緒に入ってきた。
「ツアオ・チュアン!まだやってるの元気だね」
 上級クラスのヤン先生は日本語を流暢に話す。縋り付くような目で先生を見つめる。
「ほら、オスカー教えてあげな!生徒は生徒同士でね!」
「任せて!」
 ??? 日本語の発音が少し違う。しかし顔はアジア系の美形。日本人では無いのだろうか……怪訝そうな顔をする。ヤン先生は続けて説明した。
「オスカーはお母さんが日本人、お父さんが香港人の香港人だよ。彼はすごいよ。日本語・英語・北京語・広東語と話すんだから。折角だから勉強教えてもらったら」
「お願いします!!!」
 にこやかに微笑みかけるオスカー。これをアジアンビューティと言うのだろうか。色黒の顔に端正な目つき。体つきも決して筋肉質という訳ではないのだが、引き締まっていて頼り甲斐がありそうだ。ぼーっとしながらも一緒の机で勉強を教わる。気がつくと先生たちはどこかへ行ってしまった様だ。シーンとする教室の中、私の胸は次第にドキドキし始めていた。
「かっこいい!!!」

十.気がついたなら

 オスカーに出会ってから、私の勉強熱は更に加速した。
 午前中は通常の中国語の授業、午後はスエーデンの留学生を捕まえて英語の勉強、と”やれることは全てやるぞ!”という意気込みが伝わってくるかの様だった。
「五月。何しに留学しにきたの」
「何って、勉強する為よ」
「そうだけど……毎日勉強勉強で楽しい?」
「楽しいというか、やっぱり折角だから最後はオスカーと中国語で会話をしたい!デートをしたい!と思ったらやはり英語も勉強しておかないと」
「だって五月、もう既にちゃんと立派に中国語話してるじゃない。レストランで見たわよ」
「もう一ヶ月も居るんだから。それ位は……」
 そうなのだ。
 人間なんでも食べることから。朝、昼、晩と通っている外国人楼では既に慣れてしまい、百%の確率で好きな物が食べられる様になっていた。
「ヨーグルトには砂糖を少なめに」とか、
「夜は遅くなるけど、帰ってくるから1人分料理を取っておいて」
 など。本場中国で会得した発音であるから、現地の人間と思わんばかりの発音。では絶対にないが、下手な中国語に必死に耳を澄まして付き合ってくれる料理人の優しさに気がついた時、出来る限り日本語や英語を使わず、知っている単語で中国語の文章を作るようになっていた。
 新しい料理が出されると、聞けば料理人は親切に発音を教えてくれる。時には発音記号を料理品目に書いておいてくれるから驚きだ。何事もやり方次第。本気の気持ちが伝われば、向こうも決して邪険な事はしない。
「これを話せるようになったと言うのかしら……」
「最近屋台の桃売りでも値切っているでしょ。十分現地人化しているわよ」
「いつ見たの???」
 とはいっても大学構内にリヤカーが出て、桃やスイカを売っているのだからいつ見られても仕方が無いといえば、仕方が無い。顔を赤らめてどさっと狭いエレベーターの中でノートを落とす。慌てて拾い集めるが、動揺をやはり隠せない。
「しかしね。やっぱり言葉は使うことだよね。それに値切らないと外国人だとまず高くふっかけられるから仕方ないのよ。うんうん。私は悪くない」
「悪いなんて言ってないけれど。五月今日の予定は?」
「短期留学生仲間で、北京の日本企業に行って見ようと思うの。来年は就職だから、もしこちらで良い話が聞ければ、こちらで就職してもいいと思っているの」
「頑張ってね!」
 長期留学生のトモは手を振ってエレベーターから降りていった。私は今中国語を話せているのか??? 私は自分に質問を投げかけながら、自分の部屋へ向かっていった。

十一.日本人租界

 授業が終わり、昼ご飯を食べた後、日本人留学生仲間で連れ合って、北京に進出している日本企業への見学会を企画した。これは大学側が主催したものではなく、たまたま知り合いの教授が日本企業と親しかった為、今後の就職活動も考え、無いコネを一生懸命にひねり出し、私が無理やり企画した物であった。
「バブルがはじけた今、やれる事は早めにやっておかないと」
 大学の中に黄色い軽のバンのタクシーが乗り込んでくる。許可さえ取ればタクシーでも大学内に入ることは可能だ。北京には三種類のタクシーがあり、一つは今乗ってきた軽自動車のバンタイプのもので、これが一番安く、沢山の人数が乗る事が出きる。この価格的に次なのがダイハツのシャレードだ。色は赤が多い。日本では現在あまり見かけることの無いシャレードだが、不思議と北京では非常に良く見かける。
 そして一番高いのはクラウン。完全に外国人向けの車である。色は白や黒であったりと落ち着いたイメージのものが多い。うっかり貧乏留学生がこのタイプのタクシーに乗ると大変だ。支払いの際、ワイビー(外国人専用のお金)でなく、人民元で支払おうとすると、「人民元だったら一.五倍払え」などと言われる事が有る。もちろんそんな支払い義務は存在しないのだが……気の弱い人であれば怖くて払ってしまうだろう。
 窓の景色が変わり、木や土が多かった大学近郊ののんびりとした空気が、車の排気ガスに塗れていく。これが本当に同じ北京であろうか、と思うような建設中の高いビルが目の前に広がって来る。建設途中のビルには大きな垂れ幕で”BEIJING 2000”と書かれている。運転手に”このビルは何か”と聞くと、「2千年のオリンピックの為に現在どんどん新しいホテルを立てているのだ」という。
 一体オリンピックが決まらなかったらどうするんだろう……という心配を余所に、運転手がタクシーの後ろを指差す。そこにはビルの垂れ幕と同じ文字”BEIJING 2000”と書かれていた。国家全体でオリンピック誘致に全力を上げているのだと言う。
「やっぱり社会主義の国だね」
 そんなことをつぶやきながら、タクシーはいつしか静かな白いビルの前に止まった。年配の留学生が人民元で料金を支払う。受付で用件を告げ中に入る。そこは日本さながら汚れ一つ無い白い壁と、最新型のエレベーター。そしてピリッとしたスーツを着たビジネスマンが待っていた。うっかり普段着で訪れた留学生の面々はすっかり面食らってしまった。
「本当に北京?」
 驚くのはこれだけでは無かった。

十二.中国でのビジネス形態

「私の中国駐在予定期間は三年です。もう一年経ちました。家族で来ている人は五年なのですが、一人で赴任すると駐在期間は三年となります。現在は良いアパートが無いのでホテルに住んでいます。しかし、ホテルの中に物を置いておいても良く無くなりますね。はははは、もう慣れましたが……」
 ずずずっと日本茶をすする。つられて学生達もお茶を口に運ぶが何だかやはり落ち着かない。日本であれば当たり前の光景なのであるが、何故中国に日本が???というギャップを受け入れる事が出来ず床を見たり、天井を見つめたりと視線がフラフラな人が多い。
「ともかく日本と比べて気楽なもんです。電話代がかかるので現在は衛星を使って日本と会話をしています。北京は日本食レストランも多いですしね。ヤオハンもあるし……何か質問はありますか?」
「中国の方を雇う時困ったことはありますか?」
「会社にシャワー設備を置かなくてはいけない事ですかね。こちらでは家にシャワーがある家庭は少ないのです。雇用条件に入る位大切な条件なのです。このシャワーに土日など家族で入りに来る事がありますよ。後はレストランも日本人と中国人は別です。別段"日本人用"と決めている訳では無いのですが、値段の問題ですかね、自然と分かれてしまっています」
 日本の商社であればそうなのかもしれない。熱心に聞き入る事は少なく、ビジネスマンの自慢話、とも取れる話しをだらだらと皆で聞いていた。中国で生産したものを日本へ運ぶ。中間に入っている中国在住の人間は契約をまとめれば後はかなり自由なのかもしれない。
 帰り際に中国人のビジネスウーマンとすれ違う。化粧が濃く、町で見る女性達とは全く違った人種であるようにも見えた。「商社での仕事は向いていないな」と呟きながら、帰りは歩いてバス停に向かい、人が満タンに詰まったバスに定期券で乗り、大学の宿舎へ戻った。
「私が見たい中国のビジネスはこんな物ではない。もっと地場の産業を見てみたいな」

 私のそう思った気持ちに根拠などあろう物は無い。綺麗なオフィス、整った施設。実際に中国で数年滞在した人間はこのような”王様”のような生活から日本の”鳥小屋”の生活に戻る事を嫌い、滞在延長を求める人間も少なくないのだと言う。しかし実際にその現場を見てみると、勘違いしても仕方が無いような環境である。色々な意味で世界で一番贅沢な商売は日本人の海外駐在員の妻だと言った人が居たが、それも納得できるような気がしてきた。成長して大成してその様な生活を送るのであれば良いが、まだまだそのような生活とは縁遠い方が人として成長するような気がした。

十三.タバコ

 大学に戻ってすぐ、王林への手紙を書いた。彼なら何か希望するような施設について詳しそうだと思ったからである。普通日本であれば通信手段に電話を使うのであろうが、何故か彼が教えてくれたのは住所のみであった。
「電話が無い事はないと思うけれど、何かそういう風習があるのかな?日本人だったら住所を教えないで電話番号だけだよね」
 私自身、大学の寮に住んでいるため個人の電話番号は無い。王林は両親と共に大学内に住んでいるのだと言っていたから、もしかしたら個人の電話番号が本当に無いのかもしれない。ともすると細かく聞くのは失礼かもしれない。改めて聞くのはやめておこう。
 書き終わると、すぐ外国人楼の一階にある売店へ向かう。売店のおばさんは当然”中国語”しか話せない。日本人が切手を買いに来たのだから絶対にこれ、とブッキラボウに一元二十毛の切手を渡してくる。「今日は中国の友達に出したいの」「中国国内に手紙を出したらいくら」と中国語の知っている単語を必死に羅列する。しかし発音が違うのか、おばさんには通じない。差し出してくる手を払いのけ「不是」「不是」を連発する。
 しかし必要は発明の母。確実に発音が分かっている単語を使って意志を伝えるのに成功した。

「中国から日本まで手紙を送るには一元二十毛元。中国から中国へ手紙を送るには?」
 中国到日本是一元二十毛元 中国到日本是多少銭?

 文法などあったものではない。しかし理解したのかようやく笑顔をみせるおばさん。笑顔で握手である。色気の少ない赤い切手を一枚切り私に渡し。大学内にあるポストに投函した二日後、王林がお昼休みの時間に外国人楼の前に姿を現した。
「五月手紙ありがとう!読んだよ」
「来てくれると思った。お久しぶり」
 笑顔の私。王林も本当に嬉しそうな顔をしている。手紙では一度説明しているのだが、もう一度手短に説明する。折角だから中国の産業を見てみたいのだが、何か見せてくれる所は無いか。と。
「いいよ!連れてってあげる。北京の側には偽物のたばこを作っている村とかもあるんだよ。観光地化していて面白い」
「偽物のたばこ?」
 私はたばこを吸わないので外国製たばこについてあまり詳しくないが、吸っている友人に言わせると中国では外国製のタバコが非常に高く、まずいのだと言う。「味が違うんだ。何故だろう」を連発する友人。もしかしたら友人が吸っていたのはその偽物のタバコだったのであろうか。
 しかし、中国におけるタバコの位置づけは非常に面白い。チップの代わりに外国製のタバコを渡す習慣があるのだ。これはぶっきらぼうなタクシーの運転手が突如と笑顔になり非常に喜ぶから不思議だ。大切に自分のタバコの箱の中にしまい「後で楽しんで吸うよ」と言うような顔をしている。
 中国にはチップの習慣は無いので、渡す必要は無いのだが、笑顔が嫌いな人間など居ない。私はちょっとしたコミュニケーションツールとして吸わなくても持ち歩こうかと思っていた矢先であった。
「面白いことを聞いた。そういうのを見てみたいのよ」

十四.ファンチェン

「で、オスカーはどうしたの。オスカーは」
 王林と別れた後、私はふらっと先輩の部屋に遊びに行ったのだが、部屋に入ったとたん、畳み込む様に声をかけられた。王林と待ち合わせた場所が悪かったのか、既に筒抜け、がくっと足を折ってショックを受けた振りをする。
「忘れてないですよーその為に毎日勉強してますから。最終的にはシャングリラホテルのディスコでデートが目標ですから。王林は友達。友達だから関係ないの」
「難しい問題だね。でも王林は私も何度か話したけど悪い子じゃないし、五月を酷い目に遭わせる様なことは無いと思うから心配はしてない。どしたのそれで」
 先輩は手に持っていたタバコの火を消す。中国留学歴は既に一年、私は彼女の事を尊敬の念を込めて”アネゴ”と呼んでいた。貫禄十分、中国語の発音も日本人とは思えない程綺麗だ。
「”ファンチェン”してみたいな、と思って、アネゴもやってるんでしょ?」
「やってるよ。ワイビーをまともに使ったら勿体ないもん。五月やってなかったの?」
「留学する時に大学の教授から”ファンチェンをしようと声をかけられても絶対
にやってはいけません。なぜなら一回掴まると罰金、二回掴まると国外退去だから”と言われていて、全く声をかけられても無視していたの。でも三割位お金が増えるんでしょ?勿体ないじゃない」
 私が留学している一九九三年の時点では、外貨流出を防ぐために外国人が使用するお金(以後ワイビー)と中国人が使用するお金(以後レンビー)は全く違う名前、紙幣となっていたのだ。
 ファンチェンとは、一般的にワイビーをレンビーに取り替える事を言う。
 ワイビーは変えたときの領収書さえ持っていれば、外貨に戻すことが出来るが、レンビーはそう言ったことは一切できない。価値としては、ワイビー:レンビー一:一.三位であったであろうか。通常生活する上ではワイビーを使用してもレンビーを使用しても買える物は全く変わらない。十元の物を買うときは、ワイビーでもレンビーでも十元支払わなくては買うことはできない。
 二00二年現在はワイビーは全く存在しない。レンビーだけが唯一の流通貨幣だが、日本の成田空港では”中国人民元の換金はお断りします”との張り紙が今も貼られている。国際的な紙幣の評価と言うのは難しいが、中国人の感覚としてワイビーは小切手であり、レンビーは普通に使うお金と言った発想であるようだ。
「別に大した事じゃないから、今から行く??」
「どこでやってるんですか???」
「私は町中の呼び込みのファンチェン屋は怖いから、大学の側のタバコやさんでやる事にする。でもね***大学では大学構内にあるんだって。びっくりだよね」
「大学の中に?違法業者が???」

十五.少額紙幣

 草川五月、東海大学三回生。大学では主に物理学を専攻し、メディカルエレクトロニクスやスペクトル解析などコンピューター技術の専門家である。しかし、何を勘違いしたのか第二外国語の中国語を三年間勉強し、大学の留学制度を使って中国人民大学へ現在留学中。判を押したようなまじめな留学生で、A,B,C,Dと四段階に分かれている夏期短期留学講座では現在辛うじてBクラスに所属し、真面目な学習態度は、大学の先生の覚えもめでたい。私がついに違法行為を実行しようとしていた。
「そんなに体を堅くする事は無いから。あっという間よ」
 アネゴはそういって私の手を引いて大学の門を出ていく。カラッとした湿度の低い空気が肌の上を流れていく。門を出たとたん屋台の売り子の声が辺りに響き渡る。大学の門の真ん前に焼き?の屋台が出ているのだ。「くれぐれも屋台の物は食べないように」という大学側の説明をまじめに守り、私は一度も屋台の物を食べたことは無い。
「ここで待ってて」
 私からさっと二万円受け取り、アネゴはそのままたばこ屋?本屋?と見まごう店の前へ向かって行った。お金を見せふたみこと話すとすぐ商談が成立したのか、さっと日本円が店の中に入り、人民元の塊らしい物が姉御の手に渡された。すぐにポケットにそれを移し私の元に戻ってくる。中身は確認しないのだろうか?
「はい、行きましょ」
「もう終わったの???」
 小さい声で「中は確認しなくていいの?」と聞くと、「もし間違ってたらクレームつけるから。この近所で商売してて、私たちにインチキしたらもう行かないからね。まずそういったことは無いわよ」留学生楼に戻り、中身を確認する。確かに枚数は合っている、が、全て二十元札だ。これは一体どういう事なのだろう。
「少額紙幣の方がいいのよ。高額紙幣の場合お釣りが大変だし、第一偽造紙幣つかまされたら大変だからね。覚えておいた方がいいわよ。海外に行ったら高額紙幣を持たないこと。泥棒にあっても最小限の被害で済むから」
「偽造紙幣???」
 後日計算してみるとレートは一元約十一円であった。通常一元十三.五円位であるから、四百元程得した事になる。こういった場所は中国各地あちこちにあるのだろうか?私はふと中国のアンダーグラウンドの世界を見たような気がした。留学人の外貨を確実に吸い上げる不思議な人達。それは既に一つの商売として成り立っていた。
「でも、これでやめにしよう。私には合ってない」
 帰国日は確実に迫ってきている。やりたい事をやる事に専念しよう。

十六.シルク工場見学

 数日後、約束通り、私と王林は二人して工場見学へ出かける事となった。
 公共バスを北京動物園前のターミナルで乗り換え、北京の市街地から少し離れた工場へと向かう。私は偽物タバコ工場の見学を希望していたのだが、その工場は北京から少々離れた所にあるので、今回は王林の友達が働いている工場へと向かうこととなった。
 繁華街を抜けて行くと、道が段々狭くなって来、道々を軍の装甲車! がダダダダっと轟音を立てて走って居るではないか。こんな光景、日本では富士山側の自衛隊の演習地側の道路でも早々見られる物ではない。
「すごいね。びっくりこんなの見たの」
 何故私が驚いているのか分からない王林。兵役のある国では、こういった光景は当たり前の事なのであろうか。最後のバスを降りた後は足で工場へと向かう。そう大した距離ではないが、多少歩いてようやく工場に到着した。一階建ての大きな建物。入り口で王林が工場見学の旨を伝えると、特に案内する人が居るわけでなく、中へと通された。こんな簡単に中に入れて良いのだろうか?
「人民大学の留学生だと言ったら全然大丈夫だったよ。行ってみよう」
 中は暗く、飾り気の無いシンプルな造りであった。まずあったのは繭から糸を取り出す女性の工員達の姿であった。煮出した繭を扱うからか誰しもストッキングを履き、靴下をはいて下半身が冷えるのを防いでいる様だ。しかし、驚いたのは誰しもぺちゃくちゃ・ぺちゃくちゃ仕事よりも会話に夢中になっている事であった。
「仕事しなくていいの?あの人達」
「一杯やっても、やらなくてもお金は一緒だから。だと思う」
「え???日本だったら大問題だよ!」
「何故そんなことを驚くの?何か変?」
 思い出してみれば、ちょっと売店などに遊びに行っても”仕事をしている”というよりも”仕事をしてやっている”という態度の店員が多かった事を思い出す。よく見なくても仕事の手を完全に止めて遊んでいる人も居る。決して休憩時間では無い。工場の奥では織物の機械がカタン・カタンとさぼることなく元気に動き、綺麗な白・緑・ピンクのシルク布を作り上げていた。
「織物工場ってのは、本当に産業の”最初”の段階の一番大切な産業なんだよね。材料その他全てが自国で賄えるじゃない。日本の戦前の一番の外貨獲得手段はこういった織物産業だったからね。あの車で有名なトヨタだって始めはこういった織物産業の会社だったんだよ。そう言った意味でこういう工場を見るのはすごく勉強になる。私見るの始めて。」
「五月は物知りだね」
 共産主義の悪所と言っては言い過ぎだが、やはり自由主義の国が栄えているのはやはりこういう理由からであろうか。以前見た日本企業で働く中国人とは全く違った工場で働く女性達の姿を見ながら、考え込むのであった。人は幸せであればそれでいい。楽しければそれでいいのかもしれないけれど……
「もっと見てみたいな。中国という国を」
 思いはどんどん強くなっていった。

十七.中国のトイレ

 帰国日寸前になって、日本から友人が寮に遊びに来た。
 しかし、ただでさえ狭い大学寮に泊める訳にはいかないので近くのシャングリラホテルに宿を取る。留学生の群にまぎれて大学寮に遊びに来た彼女。ごくごく普通の日本人である。
「もの好きだね。ホテルは五つ星だから綺麗だったでしょ」
「もうびっくり。トイレから出ると人がすぐタオル持ってきてくれたり、ディスコが付いていたり。中国じゃないみたい」
「もう色々回ったの。これから。連れて行ってくれるでしょ」
「Ok!」
 すぐ出かける準備をする。財布、タオル、ミネラルウオーター。そして長時間のお出かけには忘れてはならないトイレットペーパー。
「何でトイレットペーパーを持っていくの」
「ホテル以外のトイレにトイレットペーパーはありません。中国では自分のトイレットペーパーは自分で持ち歩く物なの」
「え???」
「陽子にも一つあげる。こっちでは必需品だから」
 引き出しから大事そうにピンク色のトイレットペーパーを出す。迂闊に机の上に置いておくと週に一回の掃除の時に持って行ってしまわれるかもしれないからだ。
「それからもう一つ大事なこと。トイレットペーパーを使ったら流さないで、必ず前に箱があるから、その中に入れるようにして。そのまま流すと詰まってしまうらしいから」
「え??? それって臭くない?大丈夫なの?」
「慣れた。いい。箱に入れるのよ。それがこっちのマナーだから」
 回収された人間の糞尿は肥料として再利用される。そうした時にトイレットペーパーが混じっていては邪魔なのだ。日本において江戸時代お金持ちの商家の糞尿は通常の家の分用よりも価値が高く、実際に高額で販売されていたと言うが、もしかしたら栄養価の高いものばかり食べている外国人楼の糞尿も高額で取引されているのかもしれない。
 良い言い方をすれば、こうした肥料を使って育てた野菜は”有機栽培”の美味しい野菜となるが、寄生虫や、糞尿自体が野菜についてしまっている可能性もある為、野菜は必ず野菜用の洗剤で綺麗に洗い、めったに生では食べるような事はしない。炒めるかゆでて食べるのが普通である。実際に油断をして生のトマトを食べたその夜下痢となり、倒れた人など生野菜を食べて酷い目にあった人は枚挙に暇が無い。どうしても生で食べる果物なども綺麗に洗い、皮を厚く切るのが普通である。
 バスを乗り継ぎ故宮博物館へ、映画ラストエンペラーのシーンを思い出しながらゆっくりと回る。海外からの環境客のみでなく、中国国内からの観光客も非常に多い。ホテルでトイレに入ってから早四時間。陽子はだんだんトイレに行きたくなってきた。
「私、いいかな。トイレどこ?」
「入り口の辺りに確か公衆トイレがあったけど。あそこはやめておいた方がいい。タダだけど隣との仕切りが無いから。隣が丸見えなのよ。日本人はあそこでは出来ない」
「仕切りが無い???」
「ちょっと探すわ。ちょっと待ってて」
 数分後、有料トイレを発見し、水洗である事を確認して一安心。入り口でお金を払い、マイ・トイレットペーパーを持って扉を開ける。が、中は前の人が出したであろう黄色い水が便器に溜まっていた。
「マナー悪いな」とひもを引っ張る陽子。ぐっぐっぐ、と何度も引っ張るのだが水が出ない。順番待ちの人は陽子がなかなかトイレから出てこないので、”どんどんどん”と金切り声を立てながら扉を激しく叩く。仕方ない……出来ない……でも今を逃したらいつできるかどうか……
 真っ青な顔で私の元に戻る陽子。「早く日本に帰りたい」ぼそっとそう呟きながらホテルへの帰路を急いだのであった。
「貴重な体験でした」

十八.夏期講習終了・そして

 あっという間に一ヵ月半に渡る夏期講習が終了した。
 最終日は口頭試験である。上級のA班は筆記や自由口頭の試験があるが、B班は短期留学の間、自分の体験した事、思った事などを中国語に直して発表する事になっていた。机へ向かい、何度も何度も推敲を繰り返す。そうした中日本からやって来た一人の先生がこう言うアドバイスをしてくれた。
「日本に遊びに来て下さい、とか来年又来たいですと言った表現は控えた方がいいですよ。こちらの人は人が良い信じやすい人が多いですから、本当に遊びに来られたり、どうして今年は来なかったの? と言われてしまう事が本当にありますから」
 その通りだと思った。
 中国人は信じられないとか、打算的と言う人も多いが、とりあえずこの北京の人たちは日本人とは違った理屈抜きで正直で優しい人が多い。日本語の原稿を書き上げた後に中国語へと置き換え、発音記号を付加する。試験の際は一切の紙を見る事が出来ない。これらを全て暗記しなくてはいけないのだ。
 私はこの原稿に得がたい経験をさせてくれた温かい人たちへありがとうの気持ちを伝えたいと思っていた。このような貴重な体験をさせてくれた人民大学の先生方にはいくら感謝をしても足りなかった。
「もうこの場所はきっと五月にとって第二の故郷になっているよ。短期講習が終わっても又いらっしゃいね」
「ありがとうございます」
 原稿は書き上げた、後は発表をするだけ。他の生徒達もそうした気持ちの人が多いらしい。試験会場では強張った顔の人が少なく無かった。先生は「そんなに緊張しなくても、大丈夫だから」と笑顔で緊張を解そうとしてくれた。数人置いて、私の番となった。名前を呼ばれ席を立ち一度目を閉じてから、発表を始めた。

 こんにちは。私の苗字は草川、名前は五月と言います。
 草川の草は草花の草で、川は四川の川です。
 私は日本人です。母は大連で生まれ、戦争が終わって日本へと戻りました。
 大学では物理を専攻しています。将来は技術者になりたいと思っています。家族は六人いて、父、母、兄、妹、弟が居ます
 その他に三匹の犬が居ます。
 私が北京で中国語を学んでいた時、一番嬉しかったのは中国人の方と自由に話が出来るようになった事です。日本において、私は中国語を話す事が出来ても、理解する事はできませんでした。
 北京に来て、一生懸命聞き取ろうとしたのですが先生の話す言葉は私の耳には音楽の様に聞こえ、その意味は全く知る事が出来ませんでした。
 でも、今私は中国の人と話をする事が出来ます。大概の事は理解する事が出来ます。私はそれが嬉しくてなりません。
 北京の印象は、と言うと東京に比べて熱いと言う事でしょうか、でも湿度が低いので、汗が出る事は少なく体はいつも元気でした。私は北京の夏が大好きになりました。
 人民大学は私の通っている東京の大学に比べて人が多いのが印象的でした。
 それも、年齢層が厚い事に一番驚きました。老人、少年、学生、大学生、そして赤ん坊と、ここに一つの社会が存在する事に私はとても驚きました。
 私は北京がすっかり好きになってしまいました。
 私は人民大学、及び人民大学の先生方に心からの感謝を捧げます。又いつか、北京にやって来たいと心から思いました。大学を卒業し、社会人になったら、いつか中国と日本の掛け橋となるような仕事をしてみたいなと思います。
 ありがとうございました。

 目からは涙が浮かんできた。先生だけが拍手をしてくれ、一礼し席へと座った。全ての文章を覚えられなかった人は紙のカンペを読んでいたが、特にそれを咎められる事は無く全員が試験に合格し、卒業証書が先生の手から一人一人へと配られた。そして最後は全員で記念撮影。私は遠慮がちではあったが、そっとあこがれていたオスカーの隣に立ち一生懸命笑顔を作った。
「終わった。恋にならない恋だったけれど」
 最後は誰とは無しに握手をして別れる。勿論私は一番最初にオスカーと握手をした。ここではそれだけで満足であった。学生代の色あせぬ記憶。その時感じた思いだけは特別に私の心に残り続けている。唯一の心残りといえば、王林に最後の挨拶が出来なかった事であろうか。いつかまた第二の故郷となった北京へ行きたい。その思いは日を重ねるにつれ強くなってきている。
 ありがとう。
 この時の思い出は全て私の一生涯の宝物となっている。
 きっとそれは永久に変わらない事であろうと思う。

[完]


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