紅葉の京都を行く〜竜馬の足跡を今追おうか ”紅葉を見に京都へ行って来ます。夜には多分戻ります” と敬語で書いて置いたから、信じる信じないは別として、一応大丈夫だろう。 小学六年生の僕が二十一世紀一番最初の十一月十五日の今日突然居なくなった事を家族の皆はどう思うのだろうか。”仕方ないな、言葉を信じて放っておこう”と思ってくれれば良いのだけれど、それは本当に楽観的見解であるかもしれない。 正直言えば、紅葉なんてどうでもいい。僕が今京都の新幹線に乗っている理由は全く別の理由からである。 「あ、富士山だ!すげー」 新幹線は一度も止まること無く、新横浜から名古屋まで走り続ける。今回の旅費は昨年貰ったお年玉から出ているのだから、誰に文句を言われる筋合いは無い。止まる駅は京都まであと二つ。合計二時間半の行程である。 新幹線の中を見渡すと、ビジネス・スーツを身にまとった男性ばかりが目に付く。中をあまりフラフラ歩いていると、どうしても、気の回し過ぎだとは思うのだが、違和感を感じてしまう。 「会社から同時多発テロの関係で、飛行機は絶対使うなって言われて、仕方なく新幹線だよ。全く時間がかかって仕方がない」 「うちもそう。早く普通に飛行機が使えるようになれば良いのだけれど」 大人の世界は大変である。 僕は勿論小学校を自主休校である。うーん。格好いい。 「病気で休むより遊びで休んだ方がいいだろう!」 それはどうだろうか。 いくつかのアナウンスの後、新幹線が京都駅へと滑り込んで行った。新幹線を降りた後は背中にナップザックを一つ背負い、限りある時間を少しでも節約させる為に、まずコインロッカーへと駆け込む。 とにかく今日は少しでも早く動き回らなくてはならない。邪魔になる荷物は少しでも排除しておいた方がいい。 ビニール袋に入れた千羽鶴だけを片手に持ち、ポケットに家から勝手に持ち出してきた線香の束を二つ入れ近鉄線のプラットホームに向けて走った。 切符は販売機では無く、窓口で購入する事になる。制服を着たお兄さんに行き先を告げ、切符を発券して貰う。新横浜の駅で貰ったパンフレットを片手に行く先を何度も確認し、駅員にその旨を告げる。 「寺田屋へ行きたいのですが、桃山御陵前で大丈夫ですか?」 「大丈夫ですよ」 特に怪しまれなかった。気にしすぎであるのかもしれない。 運賃は二百五十円也。ガタゴトと江ノ電にも似た普通電車に乗り込む。電車内はあまり混んでは居ない。この近鉄線は悪まで京都の庶民の足なのであろう。 二十分程ゆられて、桃山御陵駅へ到着。ここから先は徒歩となる。駅員さんに寺田屋の場所を確認し、教えられた通り、桃山御陵駅を出てすぐ右の商店街を全速力で抜け、抜けた所を次に現れた左側の商店街を走り続けた。 頭を上げ、商店街の名前を見ると、本日命日の、僕を今日この京都へと誘った人物の名前が書かれているのに気が付く。”坂本竜馬商店街”。黄色い幟には黒い色濃い字で確かにそう書かれている。 「皆商売上手だねえ!」 龍馬寿司なる物も一切れ単位で売られている。寿司飯と白胡麻・生姜で作られたしめ鯖のお寿司である。龍馬も脱藩する前までは、好んでこれを食したと書かれているが、残念ながら今回は食べている時間が無い。 その他龍馬の銅像、カレンダー、名言集などが窓越しに見えるだけでも様々な物が売られているのが分かる。修学旅行生のおみやげベスト一は龍馬グッズであるそうだから、これは当然の事であるのかもしれない。 「勿論僕も、修学旅行で来たときは一杯買って帰ったけどね。今日は買わない」 それは、今ある旅費から考えるとおみやげ代はとても出ないからである。 次第に川が見えてきた。見えてきた所の右手を遠目に見ると、不自然な人混みが目に映った。ついに着いたのである。新幹線を降りた後、ここまで一気に来たのには当然理由がある。この寺田屋の拝観時間が十五時四十分であったからである。これはこの寺田屋が旅籠としてまだ使用されている為に規定されている時間である。時計の針は十五時丁度。何とか間に合ったのである。 「一人お願いします」 木製のトンカチのついた呼び鈴の上に硝子戸があり、お金をチャリンと渡すと、手形のチケットと薄いパンフレットが渡された。履いていた靴をビニールに入れて昔さながらの寺田屋の空気を吸う。玄関を入って直ぐの所には一畳ほどもあろうかと言う坂本龍馬の立ち姿の写真が飾られていた。そう、この旅籠はかの大政奉還の歳、薩長及び幕府の間に入り大活躍した英雄、坂本龍馬のかつての定宿なのである。 「うわーそのまんまだ」 低い天井。時を重ね茶色く飴色に染まった木材。前に入った団体客が立ち去ったのを確認してから二階へと上がる。階段に書かれた説明によると、龍馬がよく使っていた部屋は二階にあるらしい。 「二十一世紀最初の年に、この場所に来ることが出来たなんて、夢のようだ!!!」 ちなみに僕の愛読書は司馬遼太郎の”竜馬が行く”である。何故これ程までに龍馬が好きなのか、それは僕にも良く分からない。親父の影響もあったであろうし(竜馬が行くは親父の書棚にあったものを読んだ)その生き様は聞けば聞くほど無条件に、惹かれてしまった。人を好きになるのに理由は要らない。それの典型であったと思う。 ただ一つ理由として分かっていることが有る。寺田屋に来てみたいなと思ったのは五年生の十月に来た修学旅行の際、たまたま偶然、パンフレットの中から寺田屋の存在を知ったからである。殆どが集団行動であり、公園内を外に出ないで自由行動といったような環境。旅館を夜抜けだし、寺田屋に行ってみようとも思ったが、夜は開いていないと言う話を聞いて断念した。 どうせなら命日に来てみたい。その思いは誰よりも強かった。 寺田屋の存在を知ってから一年以上が経過し、今この場所に立っている自分が誇らしかった。有言実行。ついに僕はやってのけたのである。 (◎o◎)(◎o◎)(◎o◎)(◎o◎) 坂本龍馬は千八百三十五年、高知県高知市上町で生まれ、千八百六十七年京都近江屋にて暗殺された明治維新の立て役者と言われている人物である。本名は直柔と言う。 現在定宿であった寺田屋は宿泊客の居ない十時から十五時四十分まで見学者に公開され、希望さえすれば一ヶ月前から予約が可能である。値段は素泊まりで六千五百円。決して高い金額では無い。 しかし、龍馬絶命の地である近江屋は現在復興されていない。現在は交通公団(旅行会社)のほんの片隅に寂しく石碑が立っているのみである。 寺田屋、そして近江屋復興の明暗を分けた理由は至って簡単であり、寺田屋が京都郊外にあり、近江屋が京都中心部、御所の側にあった事に起因する。 近江屋があった所は地下が高く、買い取る事が難しい事、及びたとえ復興させたとしても維持管理が難しい事があげられるのだと言う。 現在は唯一、近江屋の十分の一の復元模型を霊山歴史館にて閲覧する事が可能となっている。この模型では、龍馬が襲われた二階奥の八畳間も見事に再現されている。ここには見廻組桂早之助が龍馬を斬ったとされる刀も展示されている。 龍馬が没した際の記事を読んでみるとこう書かれている。 ”気を利かせて近江屋に宿を取った事が仇となった” と、この”気を利かせて”という意味は非常に深い。単純に近江屋が寺田屋よりも高級な旅籠であった事が考えられるが、それ以外の理由も考えられないであろうか。実際に京都の地図を広げて考えてみると、もっともっと別の意味が見えてくる。 中央に京都御所。そしてそれに寄り添うようにして近江屋。大きく離れて寺田屋がある。 石碑しか残っていないとはいえ、何か分かる事があるかもしれない、と近江屋近辺を徒歩で歩いてみると人づたえに色々な物が見えてくる。ホテルになってしまった長州藩邸、そして高知藩邸が近江屋から、かなりの近距離に存在するのである。 「え?」 これらが近辺にある必要があった理由は色々と考えられる。既に倒幕が最終段階にあり、各藩及び内裏と密に連絡を取る必要性があった為、位置的に遠く離れた寺田屋に泊まっていたのでは時間的に間に合わなくなってきていたのではないか、ということである。 これらの理由が”気を利かせた”の真意であったとは考えられないだろうか。ともあれ龍馬は利便性を追求しすぎた結果目立ちすぎ、暗殺者に狙われてしまったのかもしれない。 京都生まれ、京都育ちの人が言うには、龍馬が暗殺者に狙われた時、両藩はそれ程の近さにあったのにも関わらず特に何をしなかったと言う記事が残っているというのである。これにより後年龍馬の死について、”仲間割れ説”なる物が生まれたのだと言うのだが、これはよくよく調べてみると正確な真実では無い。 龍馬が討たれた際、辛うじて数日生き延びる事が出来た中岡慎太郎の元に海援隊陸奥宗光や白峰駿馬、そして土佐藩からは曾和伝左衛門、毛利恭助などが見舞ったという事実が残っているのである。 龍馬殺害の犯人は長らく新撰組であると考えられていたが、後に佐々木唯三郎ら七人の見廻り組による犯行である事が維新後、見張りをしていたと言われる今井信郎の告白により実行犯は判明するのであるが、では主犯は誰なのであろうか。 殺人事件で一番気にしなくてはならないのは、その人物が死んで一番得する人間を捜し出す事である。 龍馬が死んで一番特をする人間。 単純に考えると、”薩長”と答えてしまう人が多いかと思う。無論その可能性は否定出来ないであろうし、かなり可能性は高いとも言えるであろう。 近江屋に到着して三日目であったのにも関わらず、その所在を知っていた人物とは一体誰なのであろうか。これらについては様々な人間が想像力を働かせ、色々な説を論じて居る。 京都の人が言うように、内部の人間の犯行では無いかとも考えられるが、気になるのは龍馬がかなりあちこちで写真を残していた事である。龍馬関連の史跡では大きなパネルにまでなっている所もある。偶像化崇拝とまで言いたくなるような写真の数である。無論当時は今のように一枚何十円で配布するような事は出来なかったとは思うが、数枚あれば、ある程度参考にはなったと思う。 見廻り組は龍馬を寺田屋にて襲撃した際、二人の同胞を討たれ、恨みを持っていた事は間違いがない。そうした経緯からもしかしたら見廻り組の人々は龍馬の写真を手に入れる事が出来たのかもしれない。写真がある、無い、では人を探す手間がかなり違う事は間違いが無いと思う。 同時期の幕末に生きた西郷隆盛は逆に一枚も写真が残っては居ない。魂が吸い込まれるかもしれないから撮らないとはさすがに言わなかったと思う。やはり暗殺者に対する最低限の防御として自分の正確な似姿は残さなかった、と考えるべきでは無いだろうか。 実際問題、龍馬の死の正確な真実については、科学の発達した二十一世紀の今となっても解明されてはいない。が、時代の流れを考えるとやはり短慮な私怨であったのでは無いかと思う。 前置きはともあれ、今こうして龍馬の息吹を直接感じる事が出来る場所が一つでも多く残っている事は非常に嬉しい事である。 階段を上がって右側にその部屋は有った。床の間には六尺あったと言われる龍馬等身大の掛け軸がかけられ、レプリカの短銃及び日本刀が置かれている。 本来は座って閲覧する事は禁止されているのだが、誰も居ない事を良いことに六畳の部屋の中央に座り、贅沢にも龍馬の掛け軸と向かい合う。何とも言えない満足感。不思議な一体感覚である。 「うわー。これが有名な銃弾の痕か!」 銃弾の痕は掛け軸の向かって左側に、見学者にもよく分かるようにであろうか、プラスチックの板の上に無造作に”銃弾”と書かれ発見しやすいように表示されていた。 どうしても気になり、痕を撫でてみる。同じ様な行動をした人間が龍馬の没した痕、数百、いや数千人居たのであろう。それは既に丸く滑らかなへこみとなっており、傷ではなく、それは既にその部屋の一部と化してしまっていた。 この銃弾の痕は、一説によると、寺田屋に踏み込んだ二十余名の敵を相手に龍馬は連射型のピストルを撃ったが五発外れてしまい、残る一発を三吉慎蔵の肩を台にして撃った時の痕であると言われている。 この時、有名な風呂に入っていたおりょうが裸のまま襲撃を知らせたという話が伝わるのだが、以外や以外。この話は龍馬が没した後の明治時代、おりょうが雑誌の取材を受けた際に答えた話であると言うのである。 歴史の中で珍しくお色気系の話であるせいか、龍馬関連の書籍には必ずと言って良いほどこの時のおりょうの活躍が記載されている事が多い。 その他床の間には龍馬直筆の書簡も置かれている。達筆で有るため細かい内容は全く分からないが、最後に”龍馬”と確かに読める。龍馬の名前を”龍馬”と書くか”竜馬”と書くかは結局意味が同じである為大きなこだわりにはならないのかもしれないが、ここにある書簡を見る限り”龍馬”が正しい様である。 廊下の中央部にある日本刀の刀傷跡も銃弾の傷同様に丸い。”触らないで下さい”とはどこにも書かれていない。そのような無粋な説明は不用だ。この寺田屋にまで足を運ぶ人間で有れば龍馬の遺跡とも言うべきこの痕を汚す訳は無いのだから。 次の客が部屋に入ってきた。とたんに自分だけの静寂が破られる。そして回りが良く見えるようになってきた。 江戸時代からそのままの状態で保存されているとはいえ、頭を上げると上部にはエアコンがしっかりつけられており、部屋の隅をそうっと見るとブラウン管を反対向きにさせたテレビが隠される様に置かれていた。時間が動き始める。梯子を通っておりょうが龍馬に風呂に入っていた時のままの姿で危機を伝えたと言う風呂を見学する。そこには薄暗い部屋に直径三尺も無い風呂桶が置かれていた。 なる程。風呂場の小さな明かり取りの窓から角度を付けて、庭が良く見える。これなら見知らぬ人が庭に入ってくれば一目瞭然である。 「でも、これじゃ覗かれ放題じゃないか?昔は大丈夫だったのか???」 庭先には龍馬の像と記念碑が建てられ、観光客が座れるようにか縁側に赤い布が敷かれたものが多数置かれていた。自販機が側にあるのでここでお茶を飲むことも出来るようである。 お茶を飲む間も惜しんで、電車に乗り込み国立博物館へ。とにかく今日は時間が無いのだ。今度は十六時三十分までにたどり着かなくてはならない。走って走って十六時に無事到着。拝観料は四百二十円。消費税込みである。 「そろそろ家族が騒ぎ出す頃かな・・・ま、いいけど」 全く家族の事が気にならない訳では無い。 国立博物館には龍馬が切られた時に地が飛び散った跡が残る屏風や龍馬の愛刀”肥前忠宏”が納められているはずなのである。この愛刀は龍馬が脱藩する際、次姉のお栄から受け取ったとされる品である。 龍馬脱藩の際、両親は家の刀を全て隠し、何とか脱藩を阻止しようと試みる。龍馬は丸腰で脱藩する訳にもいかず、途方にくれるのであるが、この時龍馬を助けたのが姉お栄である。肥前忠宏はお栄が築屋敷の柴田某に嫁し離別した際、形見に受け取ってきた品であったと言う。二尺二寸の美しい丁字乱れの端正な刀は剣豪でもある龍馬を健啖させる品であったと伝えられている。 刀を渡した後、お栄は後々坂本家に迷惑がかかる事を恐れ、”貞夫は二夫にまみえず”と龍馬の事を一言も漏らさず自害している。後に坂本家は刀を紛失したと藩に届けるが、藩からの特にとがめは無かったのだと言う。 結局刀は龍馬の最後を守りきる事は出来なかったのであるが、ともかく屏風はさておき、刀はかなり由緒のある、価値の有る品であるのだと思うのだが 「な・・・ない・・・」 広い館内を探せど、探せど見つからない。仕方なく受付で事情を話し話を聞くと、 「国立博物館には現在一万点以上の品物が所蔵されています。ですから全点展示する事は不可能なのです。 龍馬関連の所蔵品は現在八月から九月に展示するようになっております」 「と、すると」 「今月は見ることが出来ません」 そこまで聞けば十分である。残念ではあるが、そうであればここにはもう用は無い。 博物館中央に設置された噴水を眺める間も無く、今度は贅沢にもタクシーに乗り込む。慌ただしかった今日の最終地点。龍馬の墓へとついに向かうのである。 現在、龍馬は脱藩した為故郷では無く、国を守った人を葬る護国神社に葬られている。タクシーで一気に坂を駆け上がり参道に入る。 拝観料は四百円。本日は命日である為であろうか、特別に坂本龍馬の写真の入った名刺を領収書代わりとして配っていた。 そこには”株式会社・海援隊”と書かれていた。確かに日本初の株式会社の社長ではあろうが、このジョークはあまり笑えなかった。 「企画をやり直さないとまずいんじゃないか?」 掲示板に書かれている内容を読むと、十一月十五日の十五時にこの護国神社に来れば、高知県招魂社例祭と坂本龍馬・中岡慎太郎墓前祭 を見ることが出来たのだと言う。そして続く十七日の夜には坂本龍馬慰霊祭提灯行列なる物が予定されていると書かれている。 ”坂本龍馬の葬儀は十七日の夜、内々に行われたとされています。その当時の正確な資料は残されていませんが、葬列を再現すべく龍馬慰霊の提灯行列を行います・・・” 本当に、坂本龍馬の葬儀は十七日に行われたのであろうか。 現在残っている他の資料によると、龍馬が暴漢に襲われたのは十五日五ツ半(午後九時)であったとされている。襲われた際、龍馬はそのまま帰らぬ人となったが、どの本を読んでも、中岡慎太郎は暴漢に襲われた後、二日間生き延びたと記載されている。亡くなってすぐその日に葬式を行えたであろうか? 資料を読み進むと、越えて十八日八ツ時(午後二時)に近江屋から龍馬と中岡慎太郎、そして下僕の山田藤吉三つの棺が東山の麓霊山の墓所、護国神社に納められたと記載されている。もしかしたら三人同時に埋葬されたのではなく、先に亡くなった坂本龍馬を一日早く埋葬した可能性も否定できないが、細かい謎はいくつか残る。 神社の中の上へ上へと続く階段を登る。ここは街中と違い紅葉が濃い。一歩一歩階段を登り龍馬の墓を一直線に目指す。参道途中は御影石に黒い油性マジックでメッセージが書かれた石盤が続く。 これは一枚千円で書く事が出きるそうである。書かれた石盤は後日別の事業に使われる予定であるという。特に龍馬の墓の側に以上に石版が多い。メッセージの内容は多岐に渡っていた。 〜龍馬の墓に来ることが出来て幸せです 〜東京龍馬会〜 〜今の平成の世を見守っていて下さい 今日はやはり知る人は知る様である。墓の側は黒山の人だかりであった。 五分程行列を並び、墓の前へと進む。持ってきた千羽鶴をビニールから取り出し、墓前に捧げたいと墓の側に立っていた宮司さんに告げると、全く構わないと言った。 「ありがとうございます。一緒に供養させて頂きます。昨年は雨が降って人出もまばらでしたが、今年は晴天に恵まれて大勢の方におこし頂き、非常にありがたい事であると思っています。ここには龍馬の墓の他に桂小五郎や幕末の志士達の墓が多数あります。お時間ありましたら探してみてはどうでしょう?」 宮司の声は殆ど聞こえなかった。龍馬以外には興味は無いのである。 ポケットに入れていた線香に火を付け、手を合わせて目を閉じる。何か一つ重大な仕事をを成し遂げた気持ちがした。 (◎o◎)(◎o◎)(◎o◎)(◎o◎) 結局、段々寒くなってきたのだが、もう今日は行くところも無くなってしまったので、寺が閉まる十九時までそこに居た。ようやく口にした温かいコーヒーが身に染みる。「京都の紅葉も綺麗だねえ」と龍馬の墓の途中にあった縁側で悠長に構えていた時の事である。 「りょうまーいるんだろう!!!」 聞き慣れた声がして頭を上げると、そこには怒りに震える親父の姿があった。 「やっぱりここか!!!お前は!心配ばかりさせて、探したんだぞ!!!」 「いやその、、、すぐ帰るって言ったのに!」 「問答無用!小学生が何を生意気に紅葉だ!!!ふざけるんじゃない!!!!」 親父の拳は今日は殊の外痛かった。何故ここが分かったのか、という無粋な事は聞かなかった。取る物とりあえず、スーツ姿にネクタイを外しワイシャツの第一ボタンを乱暴に外したその姿からは簡単に会社から早退をして、探しに来たと言う事が想像出来た。 当然の事ながら有無も無く、京都駅で荷物をコインロッカーから出した後すぐに最終の新幹線で自宅へ強制送還と相成った。本音を言えば修学旅行でもう一度見たのだけれど、円山公園の龍馬像も見たかったし、今度こそ本当に紅葉を見に醍醐寺にでも行きたかったのであるが、 「ま、来年また命日に来るさ。大体コツも分かったし、次は酢屋にも行ってみたいな!」 「お前何か言ったか。もう帰るぞ瞭馬!」 自分が一番最初に龍馬を尊敬してこの名前を付けたんじゃないか!と言いたい所だが、親父の目が光っている。怖い。 かくして僕の始めての墓参りは幕を閉じたのである。 めでたし、めでたし |