SARSロード

 今から十年ほど前の事になるが、夏休みの間北京の大学に短気留学していた事がある。大学の留学生楼のパイプベッドに転がり北京語を勉強した日々。それは今もなお色褪せる事の無い大切な思い出である。

 留学の際気になった事と言うと沢山あるのだが、その中で「食器の汚さ」と言うのは無菌状態の日本で育った私にとっては別の意味での驚きであった。「こんな食器でご飯を食べて病気にならないのか?」と何度思い悩んだだろう。

 誰に教えられた訳では無いけれど、レストランについたらまず食器を綺麗に洗うようになった。慣れて来ると使用したナプキンがべったり黒く染まっても気にならなくなったが、私はアライグマのように食事前、決して食器を常に磨く事を忘れなかった。

 とにかく食器の面だけでは無く、トイレでも、ゴミ捨ての習慣でも、殊衛生面では日本に比べ驚愕する事が多かった。「我々は器にお金をかけず、料理にお金をかけているのだ」と説明する人も居たが、日本でこんな食器を出したら絶対にお客はやって来ないと思う。

 現在北京を中心として新型肺炎「SARS」が全世界で蔓延している。最近「スーパースプレッダー」なる者の存在が明らかとなり、感染経路について、かなり経路が確定されつつある。

 蔓延の理由としては中国当局の事実隠蔽も無論あっただろうが、一つとして「人の流れ」と言う物があげられるのでは無いか。と書いている新聞があった。独裁者が政権を握る「誰も行きたがらない」国には発病者が少なく、ハブ港のように「人が常に集まる魅力的な町」に感染者が多い。なるほど。そうした観点からか、北朝鮮は草々に観光客一斉締め出しを行った。個人的にこれは英断であったと思う。食料及び医薬品が慢性的に不足している北朝鮮において、SARSが蔓延した場合の恐怖と言うのは計り知れないだろう。

 では何故アジア一の繁栄を誇る日本に感染者が出ないのだろうか? 政府が隠蔽している? 一人、留学当時の事を思い出しながら、理由を考えている内に私は一つの結論に達する事が出来た。

「SARSを恐れてはいけません。最大の予防は石鹸による手洗いです」

 日本の空港を管理する衛生官が力強くこう語っていた。感染を予防する事の重要性。ゴミの不法投棄が社会問題化しているとは言え、世界的に言えば日本は綺麗な街なのである。

 日本では「潔癖」と言う言葉を聞くことは決して珍しくは無い。綺麗に掃除された部屋、食器、外から帰って手を洗う事などは幼稚園に入った頃から必ず親に教えられる「当たり前の事」である。口から「ぺっ」と唾を吐いて街を汚す人も海外に比べればそう多くは無い。日本人の場合、元来の生活スタイル自体が感染を防いでいたと言えるのでは無いだろうか。

 遅まきながら中国本土に置いても痰などを道に吐いた人間や動物の遺体などを放置した人間には罰金刑が処されるなど、恒久対策が推進されるようになった。閉鎖の解かれた北京大学「我の後に続け」とばかり学生達が進んで街の浄化に取り掛かって居ると言う。「SARSを故意に感染させた人間は死刑」と何でも制度だって決めなければ物事が進まない事は困った事だが、今回のSARS感染事件を受け、中国全土での社会衛生面での考え方が大きく変るだろうとコメントしている人も居た。

 日本人は海外において、衛生的に問題のある所に行く事は最初から警戒し、不衛生な屋台などで食事を取る事も少ないだろう。私自身留学時「絶対に屋台で食事は取らないように」と厳命されていた。つまり日本人は病気に感染する所を無意識的に避け、SARS対策を常日頃から行っていた。のでは無いだろうか。

 家庭内に病気を持ち込まぬように。怖い病気でも、根の対策さえ知っていればそう怖い物では無い筈だから。