虐待連鎖信号・点滅中 　イラク戦争について善悪の意見が紛糾する中、あっという間に戦争は米英軍の手により終結した。あまりの短期間に驚いたが、それ以上に驚いたのはイラク人自身の手によって略奪行為が行われた事であった。古来より戦勝者の権利として敗者より富を奪う事が公然と行われていたが、おそらく敗者が敗者の富を奪うと言った事は有史の中でも珍しい事件では無いだろうか。 「フランス軍はやはり参戦すべきであった。そうすればアメリカ軍のように石油省では無く文化遺産を優先して守っただろうに……」 　戦争が終った後で、何もしなかった事を棚に上げ、言いたい放題言う人が居る。略奪を行ったのはイラク人なのに、あたかもアメリカ軍が悪いように意見を進める。人のせいにして、自分を優位的に見せると言うのは国と国の間だけで発生する事では無く、人間同士の間でも良く行われる行為である。 「家の娘は嘘なんてつきません」 「私は子供を信じています。勝手に持って行っていません！　家の子供はみきちゃんが勝手に玩具を持って行ったと言っています」 　娘の砂場用品を頻繁に泥棒する子供に堪忍袋の尾が切れ、一度文句を言った事がある。最初は確かに子供の行為に対する苦情だったのだが、途中で私の子供に対する教育方針に代わり、三歳の子供を公園で一人で遊ばせる行為を私がなじると、「私もそうだったから大丈夫だ」と言うのだが、私の目には面倒なので、自分の生活・仕事を優先させたいので子供を一人遊ばせて居るだけにしか見えなかった。 「もう家の子供と遊ばないで下さい！」 　捨て台詞を残して、その母親は返って行った。しかしその三十分後その家の子供達は我が家の庭先で相変わらず勝手に遊んでいた。何か間違っている……と思うのだが、近所の人たちには「良く文句を言えたねえ」と英雄扱いされてしまった。大なり小なり、近所の人はその家庭の人間に被害を受けていたのだが、トラブルを拡大させるのが厭で放っていたのだと言う。「はい」と言えない人間。私にはそう見えた。そして風の噂でその家庭では暴力が日常茶飯事に行われて居ると言う話を聞いた。怒鳴る声に泣き叫ぶ子供の声。それは隣近所の人間に言わせると、雨の日も晴れの日も、毎日のように聞こえて来たのだという。 「あれは絶対まずいって。私、児童相談所に電話しようと何回思ったか」 「親にやられるから、遊び相手にも暴力振るうんだね」 　数年後、その家の子供達は揃って前歯が虫歯になっていた。始めは歯に何かゴミが付いているだけかと思ったのだが、良く見ると歯が既に何かに腐食されている。 「歯磨きちゃんとした方がいいよ。うん」 　最近の研究では、虐待を受けている子供は他の児童に比べ、虫歯になっているケースが多いのだと言う。その理由としては保護者の養育の放棄や怠惰が考えられると研究結果は纏められていた。歯科検診による虫歯の早期発見は虐待の早期発見に繋がると言うのだ。黒く煤けた子供の歯を見ていてぞっとした。噂だけでは無かったのだ。確かに虐待の連鎖がこの目の前の子供に連綿と続いていたのだ。 「困った事があったら電話しておいで」 　とは言えなかった。兄弟の子供が「みきちゃんと遊ぶなってママ言ってるぞ！　早くこっちに来い！」と公園の外から怒鳴り声をかけてきた。慌てて走り出す子供。文句をつけて以来、あの母親は面と向って私と会話する事を控える様になった。伝わって来る意思は全て子供の口を通して私へと伝えられた。 「さようなら」 　 　私と娘はぼんやりと公園に立ちつくしていた。私に何が出来るだろう。いや何もできない。無力感を感じつつも、その目の前に起こっている事について何をする事も言う事も出来なかったのだ。「自分の生活を守りたい」「余計な事に関わりあいたくない」「言うだけ無駄」お題目のような短文を反芻させながら、眼前から消え去って行く子供の後姿をいつまでもぼーっと眺めていた。 「虫歯はいけないよねえ。ママちゃん。歯磨き、きちんとしてないのかねえ」 「そう……だね」 　イラク戦争が終結し、ブッシュ大統領が戦争終結宣言をするにつれ、略奪された博物館の遺物が市民の手から徐々に返却されて来ているのだと言う。人間は失敗をやり直す事が出来るのだ。私に今何が出来るだろう。いざと言う時に子供を守る事だろうか。言うだけ無駄と思いつつも母親に意見を言い続ける事だろうか。近所の老人会の人に話を聞くと、子供が遊びまわっていると、必ず何をしているか確認し、万が一の事故が起こらぬよう注意をしているのだと言う。 「警察沙汰にならないようにね。最低限見てあげる事はしているよ。ま、子供の頃の小競り合いはある意味勉強だからね」 「そうですよね。今後エスカレートした時の為に今は見ているしか出来ないですよね」 　残念ながら、私の明確な答えはまだ見つかって居ない。虐待が側で起こっている事を知った時、あなたならどうすると思いますか？