殺人母親

 昨年末産んだばかりの赤ちゃんがアトピー性皮膚炎と診断された。
 まだ生後三ヶ月を過ぎたばかりなのに、全身を小さな爪で掻き崩し、ぐずるその姿は不憫と言う一言では片付けられない状態である。

「旦那も娘もアトピーだから大丈夫。慣れてるわ」

 と思ったが、幼児性アトピーと言うのは全くの別物である事に日を追う毎に気がついた。とにかくまだ身体が小さいのでパッチテストさえ行えない上に摂取する食料は母乳だけと言う状態。診断二週目に皮膚科の方からは「卵、牛乳、大豆の摂取を控えてください」と言われた。母乳には母親が食べた栄養素がそのまま出る。母乳にアレルゲンが出ぬよう食生活を変えていかなければならないのだ。

 医師からの指導は前述した「……控えて下さい」の一言だけ。私は途方に暮れてしまった。朝食の納豆は駄目、寝る前のミルクは厳禁、食後のヨーグルトは見るだけ。ここまでは単純に想像出来たのだが、パンに付けるバターも駄目、息抜きに飲む紅茶にミルクを入れても駄目、嗜好品のチョコレートも駄目、サラダにマヨネーズも……と食事制限が進むにつれ、段々ノイローゼ気味になってきた。口にするもの全ての成分が気になって来て美味しくなく、食べる量も少なくなって来た。深夜授乳の間はお腹が「グーグー」鳴りっぱなしとなり、貧血も酷くなり、朝・時間通り起きると言う習慣さえもままならなくなって来た。

「食事制限を始めたら、ノイローゼになって母乳が出なくなってしまった」

 一人では耐え切れず、アトピーの子供を持つお母さんに相談をすると、おそらく私が今後体験するだろう壮絶な経験談を教えてくれた。粟、稗を食べ、蛇の肉を茹でて食べる。聞けば聞く程混乱し、現実逃避してしまいたくなった。


 今から五年前。生後四ヶ月の長男がアトピー性皮膚炎となり食事制限を始めた母親がストレスに耐え切れず、結局子供を殺してしまうと言う事件が発生した。この事件を担当した弁護士は「これは親子心中と変らない」と記録を残している。難病を抱えた母親が一人で悩み続け犯行に及んでしまった。いたたましい事件だが、母親が赤ん坊を殺してしまうと言う事件の数は決して少なく無いのだ。

「君は年々二百人の母親が子殺しをする事を知っているか……」

 第一子を授かった際、「絶対読みなさい」と頂いた育児書の最初にかかれていた言葉である。重くずっしりと来る言葉である。正直始めにこの言葉を読んだ時は「何を大げさな、毎年そんなにもの赤ちゃんが殺されている訳が無いだろう」と思ったものだ。しかし子育てを続ける内に、この数字が決して大げさでも誇張でも無い事に気がついた。

 核家族化が進む現代において、子育てと言うのはかなり孤独な仕事である。朝起きて夜寝るまで、バブバブしか言わない赤ちゃんを相手に何年も頑張らなくてはならない、と言う事はストレスが溜まる上に終わりが見えないので母親を追い詰める事がしばしばある。「子育ては出来て当たり前」「家に一日居られて楽そうだなあ」と言う理解の無い一言などあろう物ならストレス量は一気に増大する。

 バケツから水が零れ落ちた瞬間、追い詰められた母親は元凶である赤ちゃんに手を伸ばしてしまう。前述した食事制限をしていた母親の例が最たる物だろう。愛が深ければ深いほど、子供のために完璧に頑張ろうと思えば思う程、「子殺し」への道程はどんどん短くなって行く。

 第一段階乳児期が終了し、子供とある程度会話が出来るようになってからは更に別の悩みが増えて行く様になる。「子供が言う事を聞かない」と言う問題だ。成長の段階において、男の子は兄弟や友達との喧嘩を通して「ここまでやったら嫌われる」「ここまでやったら危ない」と言う事を自分の身体を通して覚えて行く事となる。しかし女の子となると一度も親に叩かれた事が無い、叩いた事も無いと言う状態で成長していく事も少なくない。「体罰は罪悪である」と言う現代の考え方が、子育ての重要な「しつけ」の段階において必要な知識を奪ってしまうのだ。

 子供が悪い事をする、罪悪を感じつつ手をあげる、子供が言う事を聞かない、更に手を上げる。堂々めぐりで、母親のストレスは溜まり、エスカレートして行く。「どこまでやったらいけなかったのか」言う事を聞かない子供をダンボールに閉じ込めて食事を与えなかったり、勢い風呂に顔を沈めてしまったり、通常では考えられない暴力を振るった結果、七五三を迎えた後であっても「子殺し」は発生し、それは家族を破滅へと導いて行く。

 こうした悲劇を避けるのはどうしたら良いのか。それは子供の内に暴力と言うのはどう言う物であるのか、兄弟喧嘩や友達との小競り合いによって、理解をしておく事が必要であるのでは無いかと思う。そして行為が激化する途中の段階で、誰かに相談し対策を練ることが必要では無いだろうか。子供は言い方一つで言う事を聞いたり、聞かなかったりする。家の中に一人閉じ困らず、子供を連れ公園にでも出、ストレスを発散させるのみならず、いざと言う時の相談相手を見つけておく事は子供を単純に可愛がるだけでなく必要では無いかと思う。

 面倒かもしれないが、自分の母親に子供を定期的に見せると言う事も一つの予防策になるのでは無いだろうか。傷が一つ増えた、発疹が先月よりもより酷く出ている。大事な孫の変化を、おじいちゃんおばあちゃんは決して見逃す事は無いと思うからだ。

 かくして私も悩んだ末、赤ちゃんの発疹について母親に色々と相談する事にした。三人寄れば文殊の知恵。現在赤ちゃんの容態は一時より回復し私のストレスも改善されつつある。昔は幼児に発疹が出た際は飢餓治療を行い、ミルクや母乳などを一切経つ事により体質改善を図ったそうである。現在はそうした事は赤ちゃんの体調上宜しく無いと言う事でステロイド剤を含む軟膏を塗布する事により治療を行う事が普通であるようだ。

「家ダケは大丈夫」と言う事は思い込みに過ぎない。次の悲劇はもしかしたらあなたの家のすぐ側で起こっているのかもしれないのだから。