春・平成・学問のススメ

 K1無敗のボブ・サップがミルコ・クロコップに1R負けを喫した。巨漢の男が表情をゆがめマットに沈む姿は私の頭に何度も浮かんでは消えて行った。彼の敗北を「練習不足」と罵声する人も居るかも知れないが、格闘技の練習よりも芸能活動を優先させたのは彼の仕事に対する方針が起因しているのでは無いだろうか。

 プロフットボーラー、プロレスラー、K1ファイターと彼は職を転々とした。大きな身体を活かしての選択であると思うが、元々は大学において薬学を専攻したインテリである。彼のあるインタビューを呼んだ事があるが、「いつか大学に戻りたい」と彼は語っていた。彼の最終目標はアーネスト・ホーストのようにK1王者になる事では無いのだ。だからこそ芸能活動を積極的に行っていたのである。今回の敗北は彼にとって意外ではあったろうが、致命的な問題では無かったのではないかと思う。

「ビッグ・マネーを手に入れても学びつづけたい」
 そうした姿勢は、勤勉を常とする日本人にとって好感を持てる物では無いだろうか。現在彼はCMクライアント数を確実に増やし、日本での活動の場所を徐々に広げつつある。

 高学歴・高収入と言う事が日本において現在イコールでは無くなって来ている。「モー娘現象」とも言うそうだが、人より一芸秀でた所があれば高学歴でなくても高収入を得る事が出来る。もはや定期的に行われているモーニング娘のオーディションにはそうした「一攫千金?」を狙う親たちが多数訪れる。一度そうしたオーディションの場に行った事があるが、明らかに勘違いした親の姿を多数見かけた。私は子供は親の夢に振り回されているのではないか? と言う印象さえ受けた。無個性、無愛想な子供たちが多くなっている現代において、彼らは誰に習ったのか妙にハイテンションで、派手である。これも一つの個性と言うべきなのかもしれないが、どうも私は違和感を感じてしまった。

「楽をして儲けたい」
 決してそうした姿勢全てを否定する訳では無いが、幼い内から子供にそうした考えを植え付けるのは余り良い姿勢では無いのでは無いかと思う。子供の考え方と言うのも昔に比べると大分変って来た。
 
 現在日本の小学校一年生の学級の乱れが大きな問題となっている。一時期国が保育園・幼稚園の時に「自由保育」を推奨した事が大きな問題であると指摘する学者も居る。一時間椅子に座って居られない。突然「お菓子が食べたい」などと言い、集団の行動よりも個人の欲望を優先させる。これが「個性だ」と言うのなら大きな間違いだと思う。それがまかり通っている幼稚園も少なくない。「個性」と「放任」を大きく勘違いしているのでは無いだろうか。

 数年前、娘の幼稚園を選ぶ時様々なタイプの幼稚園を見学した。当然自由保育の幼稚園も見学したが、年長・年中・年少が園庭中入り乱れ、暴走している姿が印象的であった。見学者の大人が「こんにちは」と挨拶しても返事が返ってくる事は無く、自分の欲望の赴くままに行動する。

 こうした教育によって生まれる「個性」を尊重して良いのだろうか。私は色々と考えた結果、朝は「おはようございます」昼は「こんにちは」と一番返事が返ってきた幼稚園に娘を通わせる事にした。それが良かったのか、悪かったのか。とりあえず娘は元気良く幼稚園へと通い、日々成長を続けている。出会う人は誰も「落ち着いていて良い子ですね」と言う。レストランに座ってご飯が食べられる。たったそれだけの事が出来ない子供が何故こんなに多いのだろう。

 元々日本は識字率が高く、江戸時代などにおいても九十五パーセントに達していたと言うデータがある。ベナンから母国に日本語学校を作ろうとやって来た留学生が、何故日本が敗戦を経験したのにも関わらず、これほど高成長を遂げる事が出来たのか、と言う答えとして、小学校など義務教育の大切さを見つけ出していた。

 日本は戦後お金が無い時期でも高額で外国の教授を招き学業を学んだ。それが最終的に日本の復興に繋がったのだが、それ以前にやはり底辺の教育が大切だと彼は思ったようだ。効率的に学業を国民全員に。そうなるとやはり一人一人の個性よりも、「教え易さ」を優先させなければいけない部分もあったのだろう。かくして日本の学業は「無個性」的であると言われるようになった。それはそれ、これはこれ。そうした勉強方法であっても個を見つけて行く人は多数居る。

 熟練の先生でも、今は小学一年生の担任にはなりたがらないそうだ。
 それは、暴走する子供が一クラスに二〜三人居るだけで授業にならなくなってしまうからであるという。勉学の大切さ。それは身に染みるけれども、結構昔の人は結構正しかった。のでは無いだろうか。と散り行く桜の花びらを見ながら思う今日この頃である。