現実はネットより濃い

 2003/02/12 一つの事件が起こった。普通ならば一つのニュースとして報道される事も無く「良くある事」「デフレの悲劇ですねえ」で済まされる筈が、一つの媒体を介してその事件が起こった事により、全国的・大々的に報道された。

 その事件は誰が名づけたのか「ネット心中」と称された。二十代の若い男女がインターネットを通じて自殺相手を募集し、実行に至った。と言うのがこの事件の粗筋だが、自分の人生を終らせると言う最大級の親不孝行為をそんなに気軽に行った良いのか、大体自殺などと言う事をテーマに掲示板を運営して良いのか、と言う意見が紛糾する中、事件は警察署内で「自殺」として処理され、日々の新しいニュースの中に埋まって行った。

「やっぱり、独りだと寂しいですからね」

 彼はもし一人だったら自殺はしなかったのかもしれない。そこまでの度胸は無かったのでは無いだろうか。モハメッド・アリが試合の前大口を叩いて自分の退路を断ったように、ネットで書き込みをする事により自分の意志を明らかな形にし、場合によっては悲劇のヒーローのように「止めるんだ!」と言った他者からの引き止め工作も期待し、自分の行為に酔っていたのかもしれない。「独りだと寂しい」それは誰にも知られる事無く消え去る事が悲しかった。と言う意味も含まれて居たのでは無いかと思う。

 この事件の一つの大きなポイントとしては自殺を考えた彼がインターネット上の掲示板で一緒に自殺をする相手を探した事にある。

「埼玉県に住む者です。一酸化炭素中毒で逝こうと思っています。ひかくてきに安楽死できるのでこのやり方に決め、必要道具は確保しています。参加される方を募集しています」

 この書き込みをした二十六歳の男性は仕事が見つからず悩んだ結果、最終的に自ら命を絶つという行為を選んだ。もし自宅の側の掲示板に同じような書き込みを張り出した場合、もし知己のある人間であれば止めるなり、相談を受け、おそらく悲劇は止められただろう。しかし彼はインターネット上の掲示板に書き込みをした。それは現実の世界の掲示板に書き込むには自分の足で歩き貼ると言う二度手間・三度手間の行為がかかるのに対し、「楽だった」からでは無いだろうか。そして失敗、意思のゆらぎがあっても、すっとぼけて逃げ去るが出来る。手軽に簡単に。こうして自殺を決意した彼の自殺への一歩が始まったのでは無いだろうか、と思う。

 そう。インターネットの世界は非常に気楽だ。無料サービスは充実し、現実の世界よりも簡単に人間関係を構築する事が出来る。そして構築するだけでなくそうした関係を破棄する事がいとも簡単に行われる。そしてそうした行為を咎める人間などまず居ない。

 インターネットに関わらず、子供の遊びもバーチャルな物が増えて来た。テレビゲームも各種様々に増え、バーチャルにスキーを体験する物、ダンスを体験する物、そして卓球を体験する物など。現実世界で実際に行うには多少手間な物も電源さえ入れれば簡単に行う事が出来るようになった。

 家で閉じ篭ってゲームをしている子供に対して親が「外で遊びなさい!」と言うと、子供はゲームボーイを持って公園に行き、ベンチに座って一日ゲームをしているのだ。何か違う。何か間違っているのでは無いか、と思うが、親は自分の生活に忙しく、公園へ出かけた子供が何をして遊んでいるかは興味が無いらしい。

 却って、泥にまみれて遊び、公園を駆け回る事は服を汚すから、と親に怒られるようだ。私は公園で泥だらけは大喜びであり、時間が出来れば一緒に散歩も欠かさないようにしている。しかし最近は小学校に上がらない子供たちの為のゲーム機というのも存在する。デパートなどに存在するゲームコーナーなどにも子供が喜びそうなゲームが多数置かれており、大人の目から見ても魅力的だ。私は敢えてゲームはやらせないようにして居る。そんな事をする位だったら外で現実の世界で遊んで欲しいと思うからだ。

「ゲームをするんだったら、一緒にお買い物来なくていいです!」
「えーどうして!」

 ゲームにまで至らなくても、一日テレビを見せ続ける親も居る。段々子供は現実と非現実の区別が付かなくなって来、寒かったり暑かったりする公園など外には出てこなくなる。当然の事として幼い頃に取得しておかなければならない他者と仲良くする方法、自分の意志を伝える方法などを覚える事無く成長してしまう。親に一度も叩かれた事が無い、一度も挫折をした事が無いと言う人間の出来上がるのである。

 そうした中でインターネットと言うツールを知るようになると今までは片方向での行為だったのが、双方向で世界中の人間と交流できるのである。それも現実の世界のように面倒な手続きもルールもお構いなしに、である。二十六歳で人生に絶望するなどとどう言うことだろう。まだまだ人生六十年としてまだ四分の一を過ぎたばかりだと言うのに。まだ何だって出来る。可能性は無限大に広がって居ただろうに。

 ネット心中はこれからも増えると思う。増えると言う表現は正しくないのかもしれないが、利用しての心中は続くと思う。それは単に場を提供した掲示板が悪い訳でも、インターネット自体が悪い訳でも無く、原因は核家族化が続く日本において、人間関係が稀薄となり、お互いに興味を持ち合わない事が美徳となっている事にあると思う。私もそうであったが、住んでいるアパートの隣に一体どんな人物が住んでいるか分らない。どう言う事をして居る人か分らない。そうした事から始まってインターネットの世界に嵌ってしまう。悩みは晴れる事無く最悪の結論へ。悔恨の涙を流した所で全ては手遅れである。

 暫定措置として心中掲示板を禁止するのでは無く、恒久措置として、少なくとも自分の周りにそうした人間を作らぬよう、あるかもしれない数年後の悲劇を防ぐ為に、まずは自分の家族から何かあったら話をする事を心がけたいと思う。

 おそらく、少なくても、どんな形であっても私は家族・友人には生きて居て欲しいと思うから。