一杯のコーヒー

「アイスコーヒー。一番小さいの下さい」

 仕事の合間・出張の帰り道に私は自然とコーヒーを飲む習慣がある。仕事が終ったならそのまま真っ直ぐに電車に乗り帰れば良いのだが、精神的に大分疲れており、一休みしないと帰れないような心境が良くあるのだ。コーヒー一杯飲むのなら缶ジュースでいいじゃないかと言う人も居るが、肉体的にも心理的にも一休みしたいのである。夏ならアイス、冬ならホットコーヒーを注文する。

「ありがとうございました!」

 都会のカフェは一席辺りの面積が狭い。くつろごうにも目の前に壁などあろうなら却って疲れてしまう事もしばしば。混雑している店だと飲み終わりすぐ立たないとそれ以上居ると店員に文句を言われそうな気さえしてしまう。狭いし落ち着かないしたまらない物がある。

 小説家の林真理子氏も最近都内にノンビリ出来るカフェが減ってきたとエッセイにて嘆いていた。プロの小説家のように原稿を書くスペースが欲しいとは言わないが、せめて一息ついて気持ちを切り替える位の時間は欲しいと思う。そうしてとりあえずひと段落気持ちを落ち着かせて家路に付くのだが、何だか落ち着かない。考えてみると昔に比べて日本のカフェ事情も大分変ってきたと思う。

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 高校を卒業して、大学に入学するまでの数ヶ月間。小遣いを稼ごうと私は生まれて初めてカフェでバイトを始めた。とは言えそう大した事をする訳では無く、作られたコーヒーをただ単に客の元に運ぶウエイトレスをしていただけであるが、その当時一番安いアメリカンが一杯380円だったのを良く覚えている。私の自給が650円だったから、一時間働けば1.7杯コーヒーが飲める事となる。考えてみれば結構お高い値段である。

 思い出してみると、カフェとは言え、コーヒー一杯を頼む客よりも朝のモーニングを食べる客、昼のランチを食べる客の方が多かった。コーヒーの種類だけで100種類はあったと思う。

 アイリッシュ・コーヒーやロシアン・コーヒーなど一杯一杯サイフォンで丁寧に入れられたコーヒーは素人目にも魔法のように見えた。私がコーヒー好きになったのは、このバイトの経験が大きく影響していると思う。やはり専門店で丁寧に入れられたアイスコーヒーは美味しい。アイスコーヒー用の豆を使い前日のお昼頃丁寧に抽出されたアイスコーヒーは一晩寝かせた後店に並べられる。人気は上々で、特に夏の暑い日等は売り切れてしまう事さえもあったのを覚えている。

「すいません。アイスコーヒーもう切れてしまったんですよ」

 残念ながら今はもうそのカフェは潰れてしまい跡形も無いが、それは新興カフェの影響が強かったのでは無いかと思う。

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「おいしいコーヒーが150円!」

 セルフサービスとは言え当時一杯150円を打ち出したドトールの最初の印象はかなり強かった。150円でどんな味がするんだ??? と飲んでみるとこれが専門店とそう違わない立派な味わいである。レストランなどのように飲み終わったコーヒーカップを下げに店員が頻繁に店の中を循環する訳でもなく、気楽な雰囲気に学生時代は友達とツマラナイ・四方山話をする時は大概ドトールに出向くようになった。

 その後類似のコーヒーショップが沢山出来、サービスも充実して来た。焼きたてのクロワッサンが食べられる店、ケーキが充実している店、パスタが食べられる店など。渋谷等をぶらり歩いているとこうした店はかなりの数見つける事が出来る。若い頃はそうした店を梯子し、批評したりするのも楽しかった。

 そうした中、ほんの数年前。そんなカフェとは一線を画す”スターバックス・コーヒー”が、アメリカからやって来た。コーヒー一杯180円程度がカフェの一つの相場になりかけていた中、スターバックスはアイスコーヒー一杯250円と言う価格を打ち出した。しかもカップは陶器では無く、ロゴマークの入った紙カップ。アメリカ人はあまり気にならないのかもしれないが、日本人としてはそうした点が細かいと思いつつ少々気になってしまった。

「高いなー」「カップがちょっと厭だなあ」と思いつつ私もブームの最中は毎週のように娘を自転車に乗せ、散歩がてらスターバックスへと通った。単純に”コーヒー”と言うだけでなく様々な隠しオプションが用意され”自分だけの味”を作る事が出来る。面白いな。と思ったのが一番の理由である。常連にならないと、分からないメニューまで存在する。その他子供用料金も用意され、ちょっとお得感があるのも嬉しかった。流れる人工の滝を見つめながらコーヒーを飲む。それはそれで私にとって楽しい一時であったのだ。

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 2001年ナスダックに上場したスターバックスはそうしたブームと言う名の風を受け、公募価格の6万4000円に対し、8万円の初値が付いた。公開の際噂では社員は勿論パートにも特別ボーナスが出たとか出なかったとか。中国にも出店し、ニュースとして報道されていた。飛ぶ鳥落とす勢い。MTVのインタビューなどを見ていると、アメリカのミュージシャンなどは自宅にスターバックスのカフェと同等の機器を設置している人も珍しく無いようであった。

「一々買いに行くのが面倒でね。ここに設置して貰ったよ」

 アメリカ人らしい。豪快な話である。

 1年ほど前、仕事の帰り道スターバックス渋谷店に娘と寄った時の事だ。コーヒーとココアを買うだけで20分以上待たされた上、サイズは選べず座る所は見つからず。店員に文句を言う間も無く流れ作業のように商品が手渡された。相変わらず値段は決して安くは無い。

「ま、いいや。電車の所の椅子で飲みましょ」
「そうだね。ママ」

 折りしも季節は冬であった。娘は子供用のホットココアを口にしたとたん吐きだしてしまったのである。慌ててハンカチで口の周りを拭き、その訳を聞くと熱くてとても飲めないのだと言う。子供は一度”まずい”と分かると二度と口にしようとはしない。

 勿体無いなと思い口に運ぶと私も舌を激しく火傷した。スターバックス側によると子供向けのココアは60度に冷ましてから渡すように指導していると言うが、その時は絶対にそんな温度では無かった。「渋谷店は込んでいるから特別」と言う人も居るかもしれないが、その日から私はスターバックスに出向く事は無くなった。何だか熱がふっと冷めてしまったような気持ちだった。

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 しかしどうやらそう感じたのは私だけでは無かった様だ。ブームは1年足らずして終了し、株式公開後株価は半分に下がり、2002年現時点では1/4にまで下がった。そうして私は気がつくと一度離れたドトールに再び通うようになっていた。「ドトールはメニューが少ないので日本人に飽きられるのではないか。スターバックスの方が断然有利」とコメントを出す人も居たが、株価を見る限り味さえ良ければ、ぼーっと飲むコーヒーに細かい理屈はいらないと言うのが日本人の答えなのでは無いだろうか。

 ドトールの株値を見てみると、多少の波はあるものの、半分以下に下がると言った事は無い。最近読んだ最新コメントでも「順調な売上を上げている優良企業の一つである」と書かれていた。「ファッション性よりも味を追求したい」創業者の言葉であるが、それが店の雰囲気にも表れていると思う。フランチャイズ展開を続け、現在はガソリンスタンド併設型も展開され、順調な売上を伸ばしている様である。

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 対するスターバックスの店舗数は300。フランチャイズ展開はせず直営店のみの展開である。売上が落ち込む中、今年の頭からはコーヒーだけで無く紅茶の販売を開始し、9/2からは横浜店限定でベーカリーショップを展開するアンデルセンと提携し30種類のパンやサンドイッチを提供する事を発表した。好評であれば全国展開を行う予定であると言う。

 今までスターバックスのスナックと言うとマフィンなど焼き菓子が中心であったが、今後はモーニング・ランチタイムにも進出する予定であるらしい。ニュースリリース後も株価は下がっているが、個人的には久しぶりに一度横浜店を覗いてみたいとは思っている。価格的には気になるがアンデルセンのパンは非常に美味しいから、である。

 スターバックスが進出してきてドトールのサービスが良くなったとコメントする人も居る。我侭かもしれないが、今後も片方が潰れる事無く切磋琢磨して美味しいコーヒーを飲ませていただけたらなと思う。一杯のコーヒーは誰の為。それは自分自身の心の平安の為であると思う。

スターバックス
http://www.starbucks.co.jp/ja/home.htm
ドトール
http://www.doutor.co.jp/top.htm