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痛みの境界線

 イライラしている時は、本当に後味の悪かった事を何度も繰り返すように思い出す。年を取るにつけてその傾向は、より強くなって来たような気がする。
 悩んでばかりいないで、気分転換をしよう。と新聞やテレビのニュース番組などを覗き込むが、こう言う時に限ってあまり良いニュースは流れては以内。昼間のワイドショーでは高校生が図書館で自分達を注意したホームレスを集団で何度も襲い市に至らしめたと言った事件が大々的に報じられていた。「まさか死ぬとは思わなかった」と涙に暮れる彼らの姿がモザイク付きで映し出されていたが、この涙は決して不運にして死んでしまった被害者に対する後悔の念からでは無く、突如として自分にまるで不条理であるかの様に襲い掛かって来た”自分自身が拘束されてしまう不幸”に対してからでは無かったのではないだろうか。おそらく彼らは知らなかったのだ。道具を用い、一人の人間を集団で殴ると一体どのような結果が生まれるのか、といった単純な方程式の結果を。
 最近発表された、生物学者の研究によると、自然界において、成熟した大人同士が殺しあうまでの行為を行うのはヒトとチンパンジーのみであると言う。知能の発達具合が種自体の自傷行為を誘発するのであろうか、又別の報告によると一つの部屋に同一の種を複数匹入れて共食いをしないのはヒト一種のみであると言う。自滅と共生。知能と言う天秤の上で人は悩み繁栄を続けている。

 一般的に現代において、人は幼児期より”喧嘩”という過程を経て人を攻撃し威嚇する事を覚える。現在日本の法律において、教師が生徒に対して体罰を与えることは禁止されている為、通常は同年代、又は先輩・後輩の間柄でどうしたら人が痛いと感じ、嫌な思いをするのかと言う事を肌で覚え学習して行くのだ。”暴力はいけない。話し合いで決めなさい”といったお題目も勿論大切ではあるが、この幼年期の小競り合いについては私は大いにやるべきであると思う。そして自分の体でトコトン理解するべきである。実際娘を公園で遊ばせている際、余りの年齢差がある場合は止めるが、男対女の闘いとなっても大概の場合はそのまま放っておく事が多い。ましては兄弟間の諍い事については「助けて!」と叫ばれても、止めるような無粋な事はしない。

「頑張って兄さんを倒してみろ!」
「無理だよーおばさん!」

 お姉さんと読んでくれていた場合は又結果は違ったかもしれませんが、
 奏効、喧嘩を続けていく内に、どうしたら兄さんが怒り喧嘩になってしまうのか、といった事を自分の体を傷つけながら覚えていくのである。そうして自分自身が下の兄弟が生まれた時に優しくしてあげようという気持ちになって行くのかもしれない。
 しかし、逆にすぐ止めなくてはいけない喧嘩という物が当然存在する。一番多いのが道具を使った喧嘩である。石を投げたり、木製のバットを振り回したりと言った実行行為に出た場合は道具を即刻取り上げた上、容赦の無い鉄拳制裁と相成る。子供を叩く場合は一番良いのはお尻であると言われるが、私は頬の部分を平手で出来るだけ大きな音を立ててて叩く。痛みを与える事よりも、”叩かれた”という恐怖を与える事が理由であるからである。ぱっと見は赤く腫れ上がるが、一時間もすればその腫れは引いて無くなるのを私は良く知っている。怒られたのにも関わらず、「このやろう!」とやり返してきた場合は、それ以上手を出す事はや説教をする事はせず、即刻親への通報を行う。そうした場合、おそらく更なる厳しい”おしおき”が彼らを待っている。それは他の親から受ける説教の数倍の痛みであるらしい。「お母さんにだけは言わないで!」とこの時点で泣きを入れる子供の数は最終段階の通報に至る数よりも遥かに多い。

「よく他のお子さんを怒れますね、私なんて怖くて・・・」

 とも良く言われるが、一瞬でも引いた場合その後彼らは私を恐れて来なくなる。舐めてくるのである。親は怖い物なのだよ、大人は怖い物なのだよ、というのを体で感じなくてはいけない時も当然存在するのでは無いかと私は思う。子供達は経験則で覚えていく。道具を使って人を殴った際はどんな目に合うのか、と言うことを。
 良く漫画などを読んでいると、人を殴る際に手に石などを入れていると、より効果が高いと書かれていることが多いが、実際にやってみると良く分かるが殴った拳が逆に壊れてしまい、非常に痛い。人を殴ったことが無い人間が人を殴ろうとすると逆に自分自身が傷ついてしまう可能性が高いので注意が必要である。拳は親指を除く四本の指が平行になるように握り、親指は必ず外に出す。うっかり中に入れていると、指を骨折してしまう可能性がある為、注意が必要である。
 シャーロックホームズは人の手を見れば、その人の職業を知ることが出来ると書いていたが、危険な人を見分ける一つの手段としては、人と合った時にまずその人の中指の上辺りを見てみる事をお勧めする。するとその人が人又は物を殴ったかどうか簡単に知ることが出来るのである。拳を一回でも壊した事がある人は拳の部分の一部、中指の上辺りに傷が残っているはずである。そう言う人にはあまり逆らわない方が良い、とも言い切れない。拳を更に壊しつづけた人は手の皮自体全てが再生し、ぱっと見では分からない綺麗な手となっている場合が多分に存在するからである。更に手の第一関節の部分がつぶれた様に大きく腫れている人には絶対に逆らわないほうが良い。これは柔道をやっていた可能性が可能性が高いからである。一般的に武道をやっていた人は一般人に比べ、礼儀正しく危険度は低いとも言えるが、ともかく突如として切れてしまった際、一番の危険人物となる可能性がある為、手を見てある程度の危機情報が収集できた場合は、余計なトラブルを招く様な事は避けたほうが無難であろう。

 人を殴る場合、殴る場所についても十分に注意が必要である。うっかり顔などを殴ろうものなら、その時は殴った事がわからなくても、翌朝にはパンパン真っ赤に腫れ上がり、相手の親が怒り来るってやって来る事は間違い無い。では次に狙いやすい胸は?というとこの部分は服に隠れてしまう部分である為そうした危機は発生しない可能性も高いであろうし、現実の”痣”として現れるのは個人差もあるが、殴った二〜三日後である。殴る個所としては悪くは無いような気もするが、胸部を守る肋骨というものは案外ともろく、ちょっと角度が悪く力が入ったりするとひび割れてしまったり、折れたりと言った事故が多々発生する。そして痛みも一ヶ月以上続く事が多い為相手の復讐心をあおり、やり返される危険性がある為やめておいた方が良いのでは無いかと思う。
 では、一番どの部位が良いのか。それはやはり下腹ではないかと思う。運良くミゾオチに入れば非力な女性であっても十分な効力を生むことが出来る上に、なんと行っても痕が残らない事が有難い。
 こうした”人を殴る”といった基本的な事についても、昔は実体験として覚えていったものなのである。殴られるのが嫌な人は強い人には逆らわなくなるであろうし、更に賢い人間はそうした人の側に寄り付かなくなるのであろう。強い人間も暴力ばかりふるっていては人が回りに寄り付かなくなる為、控えざるを得ない様になって来る。それが最近の教育においては”皆同じ”が最大の美徳となり、徒競走で一番であっても、ビリであっても扱いは同じ。どこか間違っているのでは無いかと思う。
 強い人間についてはその旨評価を行い、弱い人間は別の分野で頑張ると共にいつかはそれを追い越す様努力を続ける。そうした経過が人生の中で尊い事である事では無いのだろうか。人は皆個性と言うものがあり、どの道、どう努力しても皆同じでは無いのだから。

 イライラを何とか抑えようと、インスタントコーヒーを入れながら考える。一番最後に人に殴られたのはいつだっただろうか。あれは一年程前の事であったろうか。全身をこれ以上無い位メタメタに殴られ、顔を左右に床に叩きつけられた私の体は交通事故に遭った訳でもないのに強度のムチウチとなり、仰向けで数日眠ることが出来なくなった。人に殴られた時はその時感じる瞬間の痛みと共に、永遠に続く精神的な痛みが存在する。現在はこの精神的な痛みを”PTSD”と呼び、理解する事が進んでは居るが一般の人間が実際こうした障害を持って病院にかかるといったことは日本ではまだ早々難しい事では無いかと思う。
 子供的な言葉を借りるのであれば、「あの時はよくもやったな!」と言う事であろうが、年を取ってくると早々簡単に忘れる事は出来ない。殴られている時私は特に防御姿勢はとらなかった。迂闊に避けて更なる怒りを買うよりも、放っておけばその内終わるであろう、と思ったからだ。ある程度痛みに対する耐性は持っているつもりであったが、受けても受けても拳は止まらなかった。こうした状況下にあって殴っている人は多量のアドレナリンを分泌し、興奮状態にある為止まりたくても止まれない状態にあるのだ。
 数年前フライパンを使って旦那を殴り、うっかり殴りすぎて殺してしまうと言った事件が発生したが、これもおそらく旦那が「その内やめるだろう」と高を食っていたからでは無いだろうか。結局私の場合は痛みに耐え切れなくなり、涙を流し”泣きを入れる”事によりようやく止めることが出来た。痛かった。体の痛みは治まったが、イライラしている時は何度でも思い出しては怒りを覚えてしまう。怒っているときの人間の脳内では毒蛇の毒を遥かに越える致死性の毒性物質が分泌されているのだと言う。そんなものが脳で生成されれば、肌にも美容にも全く宜しくない。あまり怒ってばかりはいられないのだけれど
 近年ドメスティックバイオレンスと言われ、夫婦間の暴力が取りざたされているが、これはやはり”やり返さない”と言うことが問題の根源にあるのではないかと思う。”やられたら・やり返す”こんな単純な事が新たなる死を伴うほどの過激な暴力を防ぐ一つの方法では無いかと思う。やられっぱなしではやはり駄目なのである。

 ではやり返し方はどうしたら良いのだろうか。勿論素手が一番であろうが、それが難しかった場合。想定する場面は自分の命が死に晒される程の事態であるとするならば、私は心から”トンカチ”の採用をお勧めしたい。一般的に考えられる凶器の一つ、ナイフを選択した場合は後に裁判となった際”凶器”として認定されてしまう為、予想外に重い罪に裁かれしまう可能性がある上に、刺した時に手が滑り自分の手を傷つけてしまう可能性が高い上に、苦労して刺すことが出来たとしても、致命傷を与える事は難しい。ナイフは切り裂く物では無く、体重を乗せて突き刺す事によりより大きな効果を発揮する。ヤクザ映画などではこうした事象を対策するために包丁を持った手を包帯でぐるぐる巻きにしていることが多い。これは血糊で手が滑ることを防ぐためであるらしい。
 逆にトンカチで人を叩いた場合、当たれば手であれ足であれ動かなくすることが可能である。場所など関係ない。どこでも当たれば良いのである。裁判においても”凶器”とは認定されない為ナイフよりも断然有利な判決結果を得ることが出来るはずである。で、あるからして私は必ず自分の手の届くところにトンカチを置いておくようにしているが、残念ながら今まで使ったことは一度も無い。最近はトンカチではなく”バール”の方が殺傷能力が高いという噂もあるが、まだ買ってはいない。実際に襲われる現場に立ってみると分かるが、特に女性の場合恐怖にひきつってしまい、頭の中で色々と考えてはいても何も出来ない事の方が多いのである。

「え、私チカン捕まえちゃったけど」

 といったのは合気道の達人である。やはり日ごろの鍛錬が大切であるのかもしれない。
 親に一度も殴られたことが無い子供というのは不幸であると思う。私は娘にぶたれたら間違いなくぶち返す。何度でも繰り返せば繰り返しただけ何度でも。小さな小競り合いの中から覚えていくもの。それはもしかしたら水泳や英語など流行の幼児教育を行うよりも大切な事では無いかと思う。不幸な事件をこれ以上起こさない為に、我々は綺麗な物ばかり求めず、過去を認める様な事をしなくてはならない時期に来ているのかもしれない。
 私もあまり過去の事を思い悩まず、頑張ろうと思い直し、コーヒーを飲み干した。大切なのは未来。ため息をつく回数を出来るだけ抑え、これから仕事に戻ります。

[完]


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