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 北京の朝は早い。

 朝一番に水道の蛇口を開くと、赤い水が出てくることがある。これは水道管に滞留していた水が朝になって出てくるからである。と言うのは簡単に想像がつくのだが、時間が経つにつれ、北京の水道水は硬水であり、日本人には少々強い水である事に気が付いた。

「うわーボサボサになってきちゃった」

 一ヶ月も在住した当たりからであろうか、自慢の長い黒髪から茶色く枝毛が見え始めるようになった。
 水質の違いによって、これ程までに髪質が変わってしまう物なのか・・・などと思っている私の目の前を、彼はサラサラの髪をたなびかせながら悠然と立ち去って行った。

「誰?今の?」

 語学力が一番上達しているAクラスの人間である。人民大学の夏休み短期留学コースには語学レベルによって複数の段階に学生が割り振られている。また片言にしか話せない私はBクラス。彼は何とAクラスである。
 
 慌てて他の留学生達に話を聞く。

 彼はどうやら香港からの留学生であるらしく、広東語の他に北京語をマスターすべく留学して来たのだと言う。しかも年齢は私よりも二歳下であり、普段はイギリスのオックスフォード大学に留学中。一目惚れの魔法を信じない訳では無いが、一目で彼の事を忘れられないようになってしまった。

 しかし今の語学力のままでは、どうあっても彼と確実に意志を疎通させることは出来ない。私は必死に勉強をした。午前中は中国語の勉強。午後はニュージーランドから留学してきている学生を捕まえての英語の勉強。北京に来ているのに、観光する事など頭に全く浮かばなかった。日々、勉強、勉強。とにかく彼と会話する事を夢見て頑張った。

「負けない!」

 努力の甲斐あってか、留学から二ヶ月を過ぎる頃には、英語にて彼と世間話を話せるようにまでなっていた。つまらない笑い話。私はニュージーランドからの留学生にこう告げた。

「最後に、彼をディスコに誘いたいの。私一人で行くのは怖いから一緒に行かないか、と誘ったら一緒に連れていってくれないかしら」

 ディスコなど、日本ではすっかり下火になっている娯楽であるが、北京では最先端の遊びであった。

「デートの誘い文句としては余り良くないけれど、いいんじゃない。最終日まで英語を上達させて、彼を誘おうよ!」

 目標は決まった。普段の授業の後に、誘い文句を一生懸命練習する。誘う先はシャングリラホテルにあるというディスコに決定。時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。最終日。皆で写真撮影をする事になり、雛壇へ登る。その時パシャッと撮られた写真は彼と私の一生の思い出である。
 
 写真撮影の後は自由行動。さあ、今こそチャンス!と思いきや彼の姿はもうそこには無かった。

「お姉さんが遊びに来ていて、もう今日には北京を発つんだって」

 同窓の友達が教えてくれた。彼の部屋まで行けばまだ間に合うかもしれない。廻りの目も気にせずに走ったが、私の目の前を彼は荷物を載せた白塗りのタクシーで立ち去って行くのが遠目に見えた。待って、待って、まだ私は言葉を伝えていない・・・

「好きだって、まだ言ってない!」

 ああ、あの時言っておけば良かった。今も集団撮影した時の写真を時折取り出しては見ることがある。過ぎ去った思い出をしまう度に私は自分が年を取った事を感じてしまう。

 中途半端な恋。忘れられないのが又寂しい。




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