誘拐、いや今は連れ去りと言う

 近年おじいちゃん達の孫の数が減ってきて居る。と言うニュースを読んだ。一昔前であれば還暦近くになれば四−五人は孫が居て当たり前であったのに、今はゼロ若しくは居ても一人・二人と言うケースが決して珍しく無いのだと言う。長寿のお年寄りがテレビで紹介される際に必ず「子供○人、孫○人、ひ孫○人」と紹介されるけれど、今後高齢化と少子化が更に進むと、長寿で孫無しと言ったケースも決して珍しく無くなるのかもしれない。

 子供の数が減って来て居る。
 それは政府が出す統計データを見るまでも無く、車で通りがかる公園などを覗いていても感じる事である。もっとも今は公園などには出ず、殆ど家だけで子育てをする人も少なくないので、そうした傾向からも公園に子供の数が減っているのかもしれない。

 赤ちゃんを知らない。
 兄弟及び自分と同年代の人間しか知らない。と言う人間が多くなったからだろうか、それとも単に自分の欲望に素直な人間が増えたせいだろうか、ここ数ヶ月の間成人男性による連れ去り事件が後を絶たない。

 安易に自分の意志が弱い年代の女性を連れ去るのは、そうした女性の事を良く知らない事も一つに上げられるのでは無いかと思う。可愛いから連れて行く。しかし生きている以上食事は食べるしトイレにも行く、連れ去り犯の一人は連れ去り後犯罪者としての自覚も無く、マンガ喫茶に自分のカードで遊びに出かけ、連れ去った女の子を階段で待たせると言った荒業をしている。自分のその時やりたい事をやる。例え自分の為に捕縛したとしても、生命の無い玩具同様、二十四時間女の子に縛られる事など想像も、必要性も感じていなかったのである。

 連れ去り事件が多発するようになった原因は、ある心理学者によると九月に起きた新潟・金井町の事件が影響しているのではないかと言う人も居る。女子を連れ去っても顔をテレビに映される訳でもなく、さしたるペナルティが与えられる訳でも無い。だったら俺がもっと上手くやれる筈……かくして模倣犯が日本中を跋扈し、気がつけば多数の連れ去り事件がニュースを賑わすようになって来た。統計データによると既にそれは百件を大きく超えていると言う。

 成人男性がまだ幼い少女を連れて行ってしまう。現在はこれを「誘拐」とは言わず「連れ去り」と言う。メルギブソン主演映画のタイトルにもなった「誘拐」と言う単語をインフォシークの国語辞典で検索すると

>「誘拐」
>人をだまして連れ去ること。かどわかすこと。
>「身の代金めあてに―する」

 と書かれていた。ちなみに「連れ去り」については記載は無かった。意味は分るが、どうもこの単語は最近出来た単語であるらしい。実際の使われ方から判断して、単純に定義をすると「金銭を目当てにしない誘拐」と言った所だろうか。金銭を目的としなければやっても良いとは言わないけれど、「誘拐」ともなると実際日本の刑法上は大事件と判断される事件となる。

 「売春」と「援助交際」のように意味は同じでも言葉が違うと感じる印象は大きく違う。「連れ去り」事件が多発するのはこうした言葉の魔法の影響がある事も否定出来ないと思う。

 又近年は「自分の意見を言う事が出来ない」人が増えている為、「来い!」と強い口調で言われた場合拒否しきれない人が増えている事も否定出来ない。

 最近あった実例としては、「連れ去り」をしようと女性を車に連れ込んだ後、説得され警察に通報された「連れ去り犯」の自宅には別の女子高生が連れ込まれていたと言う事件が上げられるのでは無いだろうか。驚くべき事に女子高生は、初回連れ去られた後高校へと通い、授業終了後車で門まで迎えに来られ「再連れ去られ」たのだと言う。

 又その「連れ去り」の事実は教諭、友達も認識しており、二度とついて行かぬよう説得まで行って居たという。結果女子高生は迎えに来た車を拒否しきれず、犯人宅に連れ去られその後警察に発見される事となるのだが、何故その時点で家族なり教諭なりが自宅まで女子高生を保護しないのだろうか、「連れ去り」について危機感が無さ過ぎるのは、連れ去られた女子高生のみならず回りの人間も同様であったようなのだ。

 アメリカで複数の女性を「連れ去り」地下室に監禁し、拷問、人喰いを繰り返していた男の事をあなたは知っているだろうか?

 犯罪者の名前はゲイリー・マイル・ヘイドニク。売春婦や障害を持つ六人の女性を自宅地下「産児農場」にて飼い、拷問によって死亡した人間を挽肉にしドッグフードに混ぜ食事として女性達に与え続けた。食事を拒否し続けた女性は死亡し肉の無いその死体は冷蔵庫に保存された。家中に漂い続ける人肉を焼く異臭に警察が玄関前にやって来た事もあったそうだが、夕食用のローストを焦がしただけと言う彼の説明にそれ以上詮索する事も無く、立ち去って行ってしまったそうだ。

 ようやく逃げ出す事に成功した女性の証言により彼は逮捕された。表向きは慈善団体を主宰する温和な紳士姿だっただけに、周囲の衝撃はかなり大きかったようである。まさかあの人がこんな事をするなんて……この辺の「自分だけは安全」と考える発想は日本人と余り変わりが無いような気がする。

「彼はそれらの女性を自宅へ連れて帰り、犯したり暴行を加えました。首を絞め、手錠をかけ、地下室に監禁し、足かせをはめました。彼女達を飢えさせ、拷問を加え繰り返しセックスをしました」

「ハイドニクが彼女の体を階上に運んで行くと、やがて電動ノコギリの音が聞こえ、その後ひどい悪臭がしてきました。そして彼が運んできた料理も同じ臭いがしました……」

 彼に出された判決結果は無論死刑。現在囚人番号F一三九八号としてピッツバーグ刑務所で死の順番を待っている。例えどんな恩赦が出されても恐らく二度と一般社会には戻って来ないとは思うけれど、こうした人間が現代も又存在し得る事を考えると、見知らぬ人の車に乗り、あまつさえも戻ると言う事は、私にとっては想像を絶する事である。

 束縛される快感。喜び。
 そうしたものをテーマにした作品を幾つか読んだ事があるが、もしかしたら、連れ去られた女子高生にもそうした心理が働いていたのだろうか? いや拒否しきれなかった、自分の強い意志を働かせる事が出来無かった、連れ去りについて深刻に考えては居なかったのでは無いだろうか。あくまで推測でしか無いが、現在「連れ去り」事件が増えている背景には「連れ去りし易い?」人間が増えている事も決して否定出来ないだろう。

「男に車に乗せられ、家に連れ込まれたが逃げ出した」

 十月に京都で起きた事件も非常に興味深い。
 学校を休んだ事を隠す為に小学校六年生が親についた嘘がこれである。警察には「ごめんなさい」と謝ったそうだが、そのような一言で許されるような事でない事は明白であろう。

 子供を連れ去られない為に親が一緒に登校する姿も今はもう珍しく無い。
 しかし、こうも模倣犯増え、連れ去り事件が現在発生する背景についても考える必要があると思う。

「知らない人にはついていかない」
「嫌な事ははっきり嫌と言う」

 この二つを守るだけで、巷の連れ去り事件は大幅に減って行くと思う。自分の子供を守る為に、子供を連れ去るのも又子供の行為なのだから。子供一人育てるのがどれだけ大変な事なのか。ごくごく当たり前の事を当たり前に教えられる。今はそんな事が必要な世の中なのかもしれません。

参考 美しき殺人鬼の本 桐生操