命の値段

 大阪教育大付属池田小の幼児殺傷事件の一審判決がようやく言い渡された。
無抵抗な小学生一・二年生を包丁で八人もの身体を刺し貫き殺したこの事件は
日本中に衝撃を与え、「未来ある子供達を殺してみたかった」と言う供述に続
く真相解明のニュースは更にこの事件の深刻さを知らしめる事となった。

「反省や申し訳ない気持ちはない。自分への後悔だけ」

 判決は「死刑」・当然と言えば当然の結果だが、数日後弁護士団の手により
控訴の手続きが取られた。宅間被告は控訴を取り下げる可能性もあるが、とり
あえずこれで宅間被告の命が最低でも数ヶ月又は数年延ばされる事が決定した
事になる。

 控訴の理由としては三つ程上げられており、内、気になったのは「責任能力
があったとしても、被告に贖罪の意識をもって刑に服してほしい」と言う内容
であった。罪を理解し、悪い事をしたと認識してから刑を実行する。弁護士団
がそこまで考慮を行う必要があるのかどうか、理解に苦しむ点もあるが、しか
しこれは日本の刑法上珍しい話では無い。

「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう。いずれ
にしても死ぬことはびびってません」

 以前日本に、こんな死刑囚が居た。

 死刑が決定し、さあ今日刑を実行するぞ! となったとたん錯乱し、精神が
狂ってしまうのだ。日本の法律では狂ってしまった人間に無理矢理ロープをか
け刑を実行するような事はしない。かくして刑は延期され、死刑囚は精神病院
送りとなった。

 精神病院で治療を受けた死刑囚は、正常に戻ったと言う事で又しても死刑の
宣告を受けるのだが、そのとたんにまたしても狂ってしまい手におえ無くなっ
てしまう……刑務官は相当混乱したらしい。一体何時になったら刑を実行する
事が出来るのだろうか、と。結果最新医学が勝利を収め、死刑囚は正常な精神
で刑に望む事となったそうだ。

 考えてみれば馬鹿みたいな話だが、これが日本の刑法の現実である。

 死刑は法務大臣の机に置かれた死刑執行命令にサインが記入されない限り行
われない。ある日突然訪れる死を恐れ、死刑囚は肥え太る事が無いと言う。数
年前まではこのサインは必ず午前中に行われ、もし呼び出しの刑務官が午前中
に現れなければ「その日は刑の執行は無し」と判断され、死刑囚もようやく胸
を撫で下ろす事となる。が、数年前この風習についにピリオドが打たれ、刑務
官が午後に呼び出しを行い刑が実行されると言う大事件が発生した。これはあ
る意味千九百七十四年、当時の法務大臣稲葉修が二十九人の死刑囚のサインを
入れた時と同じ程の衝撃であったのでは無いだろうか。

 今日死ななくて良い。

 それが分かった午後から死刑囚の一日は始まると言う話を聞いた事がある。

 人の「死」と言うのは実際に非常に強い恐怖であり、終焉である。口で幾ら
強がりを言っても現実問題は違うのである。しかし、一度死刑が確定してしま
ったら、それから逃れる術は無い。かくして死刑囚は微罪を裁判所に申し立て、
判決を待つという手段を取るようになる。これは裁判が行われて居る間は刑が
実行され無いと言う慣習があるからである。

 日本の刑務所では基本的に労働をする事が義務ずけられているが、死刑囚は
労働をしなくて良い上に差し入れも自由だと言う。(労働を希望し対価を受け
取る事も可能だが、一度労働を始めるとやめられなくなるそうだ)彼らの生活
費は税金によって賄われており、治療等も無料で受ける事が出来ると言う。無
論冤罪の可能性があるので死刑制度が適正では無いと言う理屈が分らない事も
無いが、死刑の期日が延びれば延びる程、我々の税金が犯罪者の為に使われて
いく事となる。

 死には死をもって償う。
 ハムラビ法典では無いが、日本では殺し方によっては三人、四人では大体確
実に死刑となる。もし自分の愛する妻、子供が殺された場合。夫が一番望むの
は自分の手で犯人を殺し仇を取る事であろう。しかしそれは新たな犯罪を生む
だけであり、建設的では無い。そうした新たな罪を生まないために刑法と言う
物があり、それぞれの罪に応じた刑罰と言う物があるのだ。と少なくとも私は
理解して居る。

「あの男を死刑に出来ないのなら、即刻刑務所から出してください。どこに隠
れても私が探し出して、殺してやります」

 汚らしい情欲により妻と子供を殺された男性が語っていた言葉。
 これは今の刑法の限界を語っているような気がした。実際私がもし自分の子
供を殺されて、もし犯罪者が軽い刑で出て来たならば……同じような事を言い、
返り討ちに合おうとも、おそらくは道具を持って行動に移すだろうと思う。

「もう保険金とかが出て払う物払ったんだから気にしなくていいのよ」

 こんな会話を例え小説の中の世界であっても腹が立ってくる事がある。
 悲しみをお金に換金し、もし満足できるのであればそれで良いと思うがそう
で無い人間も勿論沢山居るのだ。

 今回の池田小の事件も、宅間被告にお金が無かった為、国から保証が出たの
だと言う。それを聞いていた宅間容疑者は激怒し、一気に三枚の便箋を書き上
げたと言う。

「どうせ殺されるのなら、最後に言いたい事を言ってやる!」

 弁護士の談話によると、奴等が金を貰ったのなら、俺はこれ以上我慢する必
要は無いと思ったらしいと言うのだ。特に宅間被告が怒りを露にしていたのは
「親がこれじゃあ子供もこうなるのは仕方が無い……」と言った供述であった
と言う。

 一審判決が出た当日夕方、宅間被告の父親がテレビのインタビューに答えて
いたが、「もし万が一外にあいつが出てきたら、俺が間違い無く殺してやる」
と語っていた。他人が聞いて居ても父親としての愛情は少なく、宅間被告が夭
逝して成長した理由が垣間見れるような気がした。実際宅間被告は父親の強い
体罰を受け成長したと言う話も残って居る。幼い頃から共働きであり、祖父母
に任せっきりで、母親があまり子育てを出来なかったと言う話も残っている。

 実際宅間被告の弁護費用は家族からでは無く、税金から出されており、両親
は全く関知して居ないと言う。とは言え母親は要介護状態で老人ホームに居り、
兄は事業の失敗により数年前自殺しこの世に居ないのだが……

 無論、幼年期に不幸だったから、家庭環境が悪かったから、と言って、他人
を殺して良い筈は無い。

 結局三枚の便箋は裁判官に退場を命じられる事となり読まれる事は無かった
が、おそらくその内容は被害者及びその両親、等々関係者への怨嗟に満ち溢れ
ていたに違いない。

 「死刑など怖くない」と言う宅間被告が今後控訴を取り下げる可能性は高い。

 しかし彼は人に死を与える事が出来ても、大人しく自分の死を受け入れると
は到底思えない。刑務所で精神異常の振りをするか、訳の分らない理屈を展開
させるか。元は頭が良い人間らしいので方法は色々と考えられるが、少なくと
ももう二度と塀の外には出てこないで欲しいと思う。

「命に値段など無い。それはとても大切な物なのだ」

 と宅間被告がそれを自覚した時に刑は実行されるのだろうか。もしかしたら
それは永久に来ないのかもしれない……と思うのは私だけであろうか。宅間被
告は法務大臣がサインをするよう求めて行くと語って居るそうだが、今までの
死刑傾向を考えるに、幾ら当人が望もうとも、そう簡単には法務大臣はサイン
しないような気がしてならない。

 幼くして命を散らしてしまった子供達に心からの冥福を祈りつつ、この事件
を教訓に二度と凶悪犯罪が起こる事が無い様考えていかなければならないなと
思う。人を殺したら死を持って償わなくてはならない。少なくとも私はその意
味を子供達にしっかり教えていきたいと思って居る。