ピアノへの道

 年を取るに連れ、履歴書の「趣味」の欄は何と書くか悩んでしまう事は無いだろうか?

 結婚式の司会者に宛てたアンケートの回答欄に、私は黒いペンで太く「ピアノ」と書いた。特に意識して書いた訳では無いのだけれど、これが後日弟の目に止まったらしい

「ピアノなんてここ何年弾いて無いくせに。何が趣味「ピアノ」だ」

 その後その会話にかこつけて、弟は司会者をナンパしていた。

 弟に指摘されるまでも無い。大学を卒業し、一人暮らしを始めてからめっきりピアノに触れる時間が少なくなったのは事実だ。その当時親とは喧嘩ばかりしていたので、ピアノのある実家には殆ど寄りつく事は無かった。しかし、そうなるまでの十五年余りの日々、私は一日三十分の練習時間を欠かした事が無かった。部活動を盛んにしていた中学時代は早く起きて、ぐうたら受験勉強をしていた高校時代は夕方に。弾く時間はまちまちで、時には楽しい事では無かったけれど、私は単純にピアノが好きだった。

「ピアノ置きたいなあ。置けないかなあ」

 結婚して住み始めた新居のマンションの契約款にはしっかり「ピアノ厳禁」と書かれていた。小さな子供が生まれる事もあったし、今はそれを我慢しなくてはならない。しかし小さい頃はピアノをやっていたのにも関わらず、大人になると辞めてしまう人が何と多い事か。小学校時代、「将来の夢」の欄に「ピアノの先生」と書いていた友人も。今はピアノから離れた生活を送っている。理由としては私と同じく新居に置けない事が一つと、今は昔ほど熱が冷めてしまったからだと言う。

「池田さんまだ弾きたいの?」
「勿論。それに娘の手ほどきは私がしたいと思って居るの」

 よく子供に音楽を教えるには三歳から教えた方が良い。と言った話を聞く事は無いだろうか。私自身三歳から練習を始め、今に至っている。眼は悪いが耳は良いのが私の自慢だ。音階などは簡単に聞き分けられるし、その気になれば曲のコードを拾うのも然程難しい仕事では無い。是非娘にもピアノの楽しさを教えてあげたい……しかし現実の壁は厚かった。娘が三歳の時点で一戸建てに引っ越しており、ピアノは置けるようになっていたのだが、相方の旦那が大反対したのだ。

「ピアノなんて教える家じゃ無いだろ我が家は。必要無いそんなもの」

 芸術に無理解な旦那に怒りを感じ、殺意さえも感じた。

 いつしか、近所の同い年の子供達はピアノを買い、練習に勤しんでいた。回りと自分を比べるのは厭だったけれど、男の子さえもピアノを買い幼稚園帰りに学校に通っている。何度か弾いている所を見せて貰ったが、最近は「どれみ」を教えるよりも早く絵の多く入った本を使って「叩く」若しくは指全体を使って「はじく」事を教える事が多いようだ。数ヶ月練習した程度の子供ではやっと「ドレミファソ」を弾くのが精々のようだった。

「練習毎日してます?」
「ピアノ教室がある前日位かな。でもこの年ならこの程度じゃない」
「私、この頃毎日練習してましたよ」
「やっぱり習い事って楽しい事ばかりじゃ無いんですよね」
「当たり前じゃないですか。続けることは結構大変ですよ。一芸十年って言うじゃないですか」

 ピアノを買うのはタダでは無い。実家に置かれているピアノは母が一生懸命貯金をし、その成果として購入した大事な品である。父は「持っていってもいいぞ」と言ってくれているが、母の気持ちを考えるとそうする訳にはいかない。だから私は母を倣い、結婚をした時から個人の小遣いを貯金して、ピアノを買うその時に備えていた。もう一度思いっきりピアノを弾きたい。いつかは娘と連弾をしてみたい。私の思いは行き場を失い、コナゴナに破壊されてしまった。

「絶対駄目とは言わないけど、今は駄目だ。みきが大きくなってピアノが欲しいと言うようになったら俺も考える」

 勝手に買ってやろうか。そう思った事は一度や二度では無い。実行しなかったのは旦那が「勝手に買ったら即売り払う」と一切譲らなかったからだ。暴力を振るわれればまず勝てない。環境は揃ったのに、私は待つしか方法が無かった。

 第二子出産の際、娘を実家に連れて行く際にピアノの手ほどきをしよう。と思った事もあったが、諸事情により娘を連れて行くことが出来なくなり、これは絵に書いた餅に終った。

 一緒に弾こう。と勢い込んで購入したものの、使われなかったピアノの初級本。捨ててしまおうかとも思ったが、子育ての繁忙さに思うだけで実行する事は無かった。もう駄目なのかもしれない。私は出産後必死に貯めていた貯金をバラバラ・ストレスを発散させるように使うようになっていた。もう無理に貯める必要も無い。買いたい物があったら好きに買えばいいじゃないか。

「みきちゃん。ピアノ弾けないんだ。あたしはもう二つの手で弾けるのよ!」

 近所の同い年の子供がピアノの腕を自慢する。小さい子供だけに壷さえ掴めば成長は早い。自慢気に指をパタパタ動かし、身体でピアノを弾いている事を表現する。

「みきはね。ピアノ要らないみたいなのよ。ママよりパパの方が良いんだってさ」

 自虐的に言っているのでは無い。「ピアノを一緒に弾こう」と言う私の誘いを蹴ったのは娘の方で、小さい頃にピアノへの道を作らなかった事について、私がとやかく後ろ冷たさ感じる事は既に大きな間違いであると思ったのだ。娘は一生音楽と縁が無く生きて行くのだろうか。それはそれで自分で選んだ道なのだから。と思っていた。

「みき。誕生日プレゼントに何が欲しい?」
「ピアノ。ピアノが欲しい」
「ピアノ???」

 五歳の誕生日の事だった。
 今更そう言われても貯金は使ってしまった……しかし娘の発言にようやく旦那がokを出した事は一つの契機だったのかもしれない。ようやくピアノを置く場所も決まり、販売店に足を運ぶ。安いピアノはリニューアルピアノと呼ばれ中古の物が十万円程度から販売されているが、ここまで来て納得が出来ない商品を買うつもりは無かった。

「ピアノには消音機が付いていなければ駄目だ。下には消音用マットを敷いて……」

 旦那の言う通りに装備を揃えると金額は七十万円を優に越える。これでは全くお金が足りない。消音装置とはピアノの真中に設置された音を小さくする装置とは別に、電気制御で付けられた特殊機械の事だ。これを設置してさえ居れば、夜中でもヘッドホンを付けて弾く事ができるし、場合によってはパソコンに音源を取り込む事も可能だと言う。価格的には本体価格が十万円から十五万円位。更にそれに取り付け料が二万円から五万円程度かかるのが普通であるようだ。

「こんなもの付けて毎日弾いてたら耳悪くするよ」
「でも付けてなきゃ駄目」

 全くの予算不足でその時は買う事が出来なかった。
 せめてそうした装備を付ける事を考えなければ……せめて娘の六歳の誕生日、いやクリスマス前までにはお金を貯めたい。セコセコ私はまたしても貯金を始めた。時間が経つに連れ旦那の態度も軟化して来た。「消音機は暫らくたってから付ければいい」「ピアノを見に行くのなら付き合うぞ」など。

「普通消音機なんて付けないよ。昔は無かったんだから」
「何で電子ピアノは厭なんだ?」
「タッチが違うから。音感が狂うから厭なのよ」

 奏効している内に近所のデパートでピアノの特売があった。
 消音機付きのピアノも売られて居る。音も悪くない。何度か通って支払い方法を検討する。もしこのピアノで思い切れなかったら……年内買うのは不可能だろうか。夜中に電卓を叩き、支払額を検討する。購入を考えたピアノは中古で二十年ものだが、音は悪くない。内部はほぼ全面交換したのだと言う。新品で同額程のピアノも売られていたが、これは韓国製で、音も安っぽく、何だか玩具のピアノであるようだった。

「やはりある程度高さが無いと音が出ないんですよ。このピアノも日本で部品を製造した後韓国で組み立てて、その後日本でメンテナンスと言う手順を取っています」

 ピアノの海外品と言えばドイツ製のものやスタンウエイ、ベーゼンドルファーなど高級品だけかと思っていたが、やはり廉価品と言うのも作られるようになっているようだ。他にも中はヤマハで、外はカワイ製の家具調ピアノなども発見した。これは値段が高く全く手に入れる余地は無かったが、「黒塗りで歯が白い」と言うピアノの印象は近年徐々に薄れて来ているような気がする。

「もし今日明日中に決断していただければ、イオンカードで五パーセント引きですよ」

 この一言が決定打だったと思う。
 結婚して六年。紆余曲折あった上に、私は趣味を取り戻す事になった。

「ここまで来るのに長かったです。ありがとうございます。これで夫婦喧嘩もおそらく半分に減る物と……」

 震える手で支払い条件の書類にサインをしている間、娘はピアノから離れようとはしなかった。普通家庭でピアノを買う場合、子供の為であるのが殆どだと思うが、我が家はそうでは無かった。珍しいと言うよりも、販売員の人に話を聞くと近年余暇の時間にピアノを弾く大人は増えているのだと言う。昔弾いていたから、昔弾けなかったから今ピアノを弾く。思いはそれぞれ違うけれど、何かと忙しい日々の中で、心の潤いを求め「趣味」としてピアノを弾く。それはそれで素敵な選択なのでは無いだろうか。

「これは家に来るんだから、今弾かなくてもいいのよ」
「ん、もうちょっと弾いてみたいんだ」

 幼稚園では丁度「メロディオン」の練習が始まった所だと言う。新しく購入したピアノは娘の琴線を躓く事があるのだろうか。「ド」の位置も分らずピアノを叩き続ける娘の姿にふと、幼い日の自分の姿が重なった。将来娘の趣味の欄は何と書かれるのだろう。もしかしたら私と同じ「ピアノ」なのかもしれない。そうなって欲しいと祈りつつ、ようやくピアノに通じる道が開通した事を今は素直に喜びたいと思って居る。