少年犯罪加速中

「こらー鼻ちょ食べちゃ駄目って言ったでしょう!!」

 今日もまた私の罵声が家中を駆け巡る。五歳になる娘が既に一度注意したのにも関わらず鼻ちょ(赤ちゃん語:鼻糞の事)を口に入れたのだ。とたんにすっとぼけ顔をする娘。反対側を向いていたけれどもあの手の動きは間違い無い。食べた。確かに口に入れた。

「ママ嘘つきさんは大嫌いだよ」
「はい食べました。ごめんなさい」

 空気が凍る。最近娘は「謝れば必ず許される」と思って居る節がある。だから「ごめんなさい」と言っても実際は分っていないと言う事が多々あるのだ。大体一度注意した事を反省せず繰り返す事自体、間違っていると思うのだが。

「今すぐ口から出してきなさい! 汚い!!」

 慌てて水場に向って駆け出す娘。その後は延々と一時間は説教タイムとなった。お互い正座をして何故いけないのか。悪いのか。私が怒っているのかを伝える。娘としては最初集中力が無く、側にあったビーズをしながら聞いていた。分っていない。自分がいけない事をしたと言う事を全く理解していないのだ。

「ママの言う事を聞けない人は、お泊り会にも夕涼み会(幼稚園の盆踊り)にも行かなくていいです。毎日一人で勝手にやっていなさい!」

 この時点になって娘はようやく私が怒り狂っている事に気がついたらしい。涙を流して「それだけは許して……」と言うが、もはやそれは手遅れである。

「勿論パパにも言ってもっと厳しく怒って貰います。幼稚園のお友達全員にも教えます。みきちゃんはきたないんだよ。鼻ちょ食べてるんだよって」
「ごめんなさい……」

 この時点の「ごめんなさい」は最初の時の物とは既にトーンも迫力も全然違う。謝って済む事ではない。一番重要な点は鼻ちょを食べた事ではなく、ママの言い付けを守れなかった事である。

「池田さん。これ読んでみて」
「何ですかこれ?」

 幼児期には二度チャンスがある。と言う本なのだが、「子育てに失敗した」と諦めないで! と副題が書かれている。失礼な。我が家の子育てが間違っていると……借りた本にはモンテッソーリ教育と呼ばれる自立した子供を育てると言う「マリア・モンテッソーリ」と言う女性の推進した教育方法を紹介した本であった。殊私は子育てに関して「失敗した」と思った事は一度も無い。無論小さな失敗は多いが、それは今後一緒に少しづつ成長して行けば良い事だと思って居る。

 借りたその日の夜一気に読んだ。お手伝いをさせる、何をしたら良いか自分で考えさせる。など確かに良い事が沢山かかれていたが、既に我が家では実施している内容であった。内私が気になったのはモンテッソーリ教育についてでは無く、この本の最初の書き出しの部分であった。それは神戸の連続殺傷事件の少年についての文章だった。

幼児期には二度チャンスがある 相良敦子著 から抜粋

「本当の意味で、いったい誰に責任があるのか。また、どのように責任を取るのか」

中略

 少年はなぜあの犯罪に走ったか
 少年の心の闇を理解しよう。
 学校教育が、少年をあそこまで追い込んだ。
 少年を構成させるにはどうしたらいいか。

 問題は少年そのものにあったのでは無く、少年を取り巻く環境にあった。A少年は、歪んだ教育、そして病んだ社会の被害者なのです。

ISBN4-06-207969-0
1600円

 本当の意味で一体誰に責任があるのか。A少年の両親は「分らない」「……かもしれません」「……でしょうか?」を連呼する。問題は育てた両親及び少年にあるのは間違いが無いのに、親が自信を持ってそれを言えない。子育ての問題点をこの本では大きく指摘していた。「もしかしたら私もA少年のような子供を育ててしまうかもしれない……」と思うのは子供と正面切って相手をしていない人だと思う。

 つい先日旦那が勉強する為に平日ファミレスへ行っていた時の事だ。平日だから空いているだろう……と出向いた先には同様の事を考えた子連れの母親達で溢れていたと言う。それはそれで悪い事だとは思わないが、母親達は子供たちをホッタラカシでこのような事を繰り返し呟いていたと言う。

「私子育て失敗しちゃった」
「本当。何でこんなに煩いんだろうね」

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「子供が分るようになったら躾を始めよう」

 そんな事を言う人も居るが、ある日突然「こうしなさい!」と言って子供が言う事を聞く筈が無い。日本ではレストランで暴れる子供が多い為、「子供禁止」なるレストランが多数存在する。実際一度断られてからは「すいません、子供居るんですけどいいですか……」と頭を下げて聞くようになった。実際子供連れで食事に行った際、酷いマナーの子供は恐ろしい程居る。酷いのになると、食事中に隣の席の私の髪を引っ張ったり、バッグを開けようとしたり。しかし親はそうした行動を取る子供に気を使う事は無い。肘をついて、親同士、会話に夢中である。一体何を考えているのか。私は激しい怒りを感じてしまった。

「そら分らないでしょうよ。子供見てないんだもん」

 先だって起こった十二歳の少年が五歳の子供を裸にして突き落とした事件。これも両親は子供の犯行だと全く気がついていなかったらしい。逮捕の夜父親が公園で呆然と立ち尽くす姿が近所の人間に目撃されている。何時まで経っても自首してこない少年に痺れを切らし、校外授業に出かけ途中の少年を警察官は逮捕、いや補導したのだと言う。

「駿くんのパパ・ママごめんなさい」

 こうした犯罪を起こした人間にしては珍しく謝罪の言葉がテレビから流れたのはある意味驚きだった。「突発的・衝動的犯行だったのでは無いか」「幼い頃に受けたトラウマが原因だったのでは無いか」「共働きで母親の愛情が足りなかったのでは無いか」憶測がテレビを縦横無尽に流れるが、結局は育てた親、犯行を起こした少年Aが一番悪い事は間違い無い。しかし今回の事件は「事件」にさえならず、刑務所はおろか少年院に入る事無く少年は処分を終える事になるのだと言う。

「これじゃ殺した者勝ちだね」

 不謹慎な事を言う人も少なくないだろう。
 更に恐ろしい事に、もし保護施設から少年Aが脱走し、両親の元に逃げ戻った場合は連れ戻すと言う拘束力さえ日本の法律には無いのだという。十二歳と言う年齢は文学的な表現としては「少年」「まだ幼い」と言った表現として使われる事がままある。犯罪の低年齢化は進むばかりで、海外では五歳! の少年が四歳の少女! に暴行を行ったと言う事件さえ存在するのだ。

 一体五歳の少年がどうやって??? 幼い頃から同室で両親の性行為を目撃していた少年は少女の膣の中に複数のボールペンを突っ込み「暴行」に及んだのだと言う。大人が想像だにしない事件。まだ口が上手に使えない少女は丸一日以上、体内にボールペンを入れられたまま泣き叫ぶ状態のまま放置されたのだと言う。

 もし自分の子供が被害者になっていたら……と想像するだけで背筋がぞっとする。悪い事は悪いと教える事の重要性は言うまでも無いだろう。少年Aは「いたずら目的で偶然駿君に声をかけ、思いがけずついて来たので……」と供述していると言う。

「知らない人について行ってはいけないよ」「ママの側から離れないのよ」母親であれば一度は口にする言葉ではないだろうか。無論一番悪いのは事件を起こした少年であるが、もしこの事件を一つの教訓とするならば、子供にこの二つの約束は絶対に守るよう確約させるべきだろう。

「鼻ちょ食べたくらいいいじゃないか。子供は誰でもするさ」

 それは全くその通り。でもそれは「食べてはいけない」物。又母親とした約束は「守らなくてはいけない」重要な物である。一度は注意だけだが、二度以降は確固たる態度を持って処する事は非常に大事な事だと思う。

「この位なら大丈夫」
「どうせ最後は許して貰えるから」
「前もやってしまったけれど、大丈夫だったし……」

「十二歳なら犯罪にもならない」
「生まれ育った環境が……」

 特に幼児対象の犯罪は常習性が高いと言う。今後犯罪の経緯経過が明らかになっていくのかどうか、微妙な問題であるが、それ如何ではなく、まずは子供の状態には常に気を配り子供に正しい善悪の判断が出来るように教えてあげる事が大切では無いかと思う。

「子育てに失敗した」などと私は絶対に口にしたいとは思わない。